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再び二村一夫氏の反論に答える(3・完)――「労働者の声」(『国民之友』95号、1890年9月23日)の筆者をめぐって [日本・近代史]

「再び二村一夫氏の反論に答える」は今回で完結します。

これまでの二村一夫氏と私との論争の経過と、私の主張については、以下の本ブログ記事をご覧ください。

「労働者の声」(『国民之友』95号、1890年9月23日)の筆者について〔2014年5月5日〕
二村一夫氏の反論に答える〔2018年5月13日〕
再び二村一夫氏の反論に答える(1)〔2018年6月10日〕
再び二村一夫氏の反論に答える(2)〔2018年6月16日〕

また、二村一夫氏の主張と反論については、WEB版『二村一夫著作集』の以下のリンクをご覧ください。

高野房太郎とその時代 (38)
大田英昭氏に答える―〈労働者の声〉の筆者は誰か・再論(1)
大田英昭氏に答える―〈労働者の声〉の筆者は誰か・再論(2)
大田英昭氏に答える―〈労働者の声〉の筆者は誰か・再論(3)

【3.高野房太郎が「労働者の声」の筆者であるという二村一夫氏の主張の根拠は妥当か?】

二村一夫氏が『国民之友』の社説「労働者の声」(95号、1890年9月23日)の筆者は高野房太郎であると断言する主な根拠は、「労働者の声」と、高野の「日本に於ける労働問題」(『読売新聞』1891年8月7~10日)など同時期の高野の文章とを比較し、両者の筆者が同一だという推論による。二村氏は著書『労働は神聖なり、結合は勢力なり―高野房太郎とその時代』(岩波書店、2008年)において、その推論の理由を四つ示している。しかし、その理由がいずれも説得力のないことを、私は拙著『日本社会民主主義の形成―片山潜とその時代』(日本評論社、2013年)および本ブログ2014年5月5日の記事ですでに指摘してある。

二村氏は私の批判に対し、「大田英昭氏に答える─〈労働者の声〉の筆者は誰か・再論(3)」(以下、「再論(3)」と略す)で反論している。この反論が妥当かどうか、検討を加えたうえで、二村氏の説が学術的に全く成り立たない理由を改めて示したい。

3.1 二つの論説の文章の論旨は一致しているか?

二村氏は前掲著書で、「労働者の声」の執筆者は高野であると考える第一の根拠として、「労働者の声」と、高野の論説「日本に於ける労働問題」とは論旨が一致すると、次のように主張している(99頁)。

----------------(引用はじめ)
この論稿〔「労働者の声」―引用者注〕は「同業組合」=「労働組合」および「共同会社」=「協同組合」の結成こそが、日本の労働者の地位を向上させる鍵であると主張していますが、これは高野房太郎「日本に於ける労働問題」と完全に一致しています。また、引用は省きましたが同盟罷工に対する態度など、細部においても房太郎の主張と食い違うところはありません
----------------(引用おわり)

これに対して私は前掲拙著で、「労働者の声」と高野の「日本に於ける労働問題」とは、労働組合の機能にかんする説明において、①前者が共済的機能を最も重視しているのに対し、後者はそれを二次的な「方便」としていること、②前者が同盟罷工(ストライキ)の機能を重視しているのに対し、後者は同盟罷工の効力に否定的であること、③後者は教育的機能を重視しているが、前者はそうした観点がないこと、という三つの点にわたる食い違いを指摘した。

これに対して、二村氏は「再論(3)」で次のように反論している。

----------------(引用はじめ)
「労働者の声」と「日本における労働問題」は、同じ時期に、まったく同じテーマで書いているわけではありません。論稿の細部についてまで、両者の論旨が一致していたら、その方が異常です。…(中略)…私が注目したのは、論旨や用語の細部にいたるまでの一致ではなく、「労働者の声」の論旨が全体として、高野房太郎の他の論稿や、彼のその後の言動と、いささかの矛盾もない事実なのです。
----------------(引用おわり)

二村氏は前掲著書で、「労働者の声」の論旨は「細部においても房太郎の主張と食い違うところはありません」と断言したはずだ。しかるに「再論(3)」では、「論稿の細部についてまで、両者の論旨が一致していたら、その方が異常です」などと開き直っている。自家撞着とはこのことをいう

ましてや、私が指摘しているのは決して「細部」ではない。〈労働組合はいかなる機能をもつべきか〉についての説明は、「労働者の声」においても「日本に於ける労働問題」においても、最も大切なテーマである。この肝心なところで、二つの論説の趣旨は三点にわたって食い違っている。とりわけ、二村氏は前掲著書で「同盟罷工に対する態度など、細部においても房太郎の主張と食い違うところはありません」と断言し、それを二つの論説の筆者が同一であるという主張の根拠としていたが、まさにこの「同盟罷工に対する態度」で、二つの論説の論旨は大きく「食い違」っているのである。そしてこのことは、二つの論説の筆者が別人であることを、強く示唆している。

3.2 二つの論説の「呼びかけ」の姿勢は一致しているか?

二村氏は前掲著書で、「労働者の声」と高野の「日本に於ける労働運動」との一致点について、さらに次のように述べた。

----------------(引用はじめ)
また「労働者の声」は、この呼びかけを労働者に向かって発しているのではなく、世の慈善心ある義人、天下の志士仁人に向かって説き、労役者の友となるよう訴えています。この姿勢も房太郎と完全に一致しています。
----------------(引用おわり)

これに対して、私は前掲拙著において次のように批判した。「労働組合の結成を労働者自身に任せておくべきではない理由として、高野の「日本に於ける労働問題」は、日本の労働者における倫理性の欠如を強調するのに対し、「労働者の声」は、日本の労働者が世論を喚起する手段を持たないことを指摘するにとどまり、労働者の倫理性についての言及はない」(188頁)。つまり、二つの論説は、その呼びかけの「姿勢」において、「完全に一致」しているなどとは決していえないのである。

この批判に対して、二村氏は「再論(3)」で次のように反論している。「論稿によって、その主張のポイントの細部に違いが生まれるのは、ごくごく自然なことです。二つの論文がまったく同じことを繰り返すはずもないのです。

二村氏は前掲著書で、二つの論説が有識者に呼びかける姿勢は「完全に一致」していると断定したではないか。しかるに今や、「細部に違いが生まれるのは、ごくごく自然なこと」などと自家撞着の言を放ってはばからない。しかも、二つの論説の労働者観が異なっていることは、果たして「細部」などとみなして無視できることだろうか。それはむしろ、二つの論説の筆者が別人であることを示す、重要なポイントの一つなのである。

3.3 二つの論説は用語が一致しているか?

二村氏は前掲著書で、「労働者の声」と高野の諸論稿とが、文体や用語の点で一致しているとして、次のように書いている(99頁)

----------------(引用はじめ)
さらに「労働者の声」は、論旨だけでなく、文体や用語の点でも、房太郎の論稿と共通するところが少なくありません。たとえば「吾人」「労役者」「友愛協会」「不幸に遭遇」といった言葉が、両者に共通しているのです。
----------------(引用おわり)

これに対して私は、前掲拙著で次のように批判した。「「労働者の声」と高野の文章の間には、用語の一致よりも不一致のほうが目立つ。たとえば「労働者の声」が用いる「同業組合」という語は、同時期の高野の諸論稿には現れず、「労役者の会合」「労役者の結合」という言葉を高野は用いている。またストライキについて、「労働者の声」では「罷工同盟」の語が多用されているのに対し、高野は一貫して「同盟罷工」の語を用いている」(188頁)。したがって、二村氏は「労働者の声」と高野の諸論稿の間で一致する用語だけを恣意的に拾っているに過ぎないのではないか。

この批判に対して、二村氏は「再論(3)」で次のように反論する。

----------------(引用はじめ)
たしかに、高野は「日本の労働問題」では「同業組合」という語を使っていません。しかし他の箇所、たとえば「職工諸君に寄す」では、「しからばいかにして同業組合は組織すべきか」と、「同業組合」の語を使っています。また「労働者の声」では、「罷工同盟」と同時に「同盟罷工」の語も使っているのです。
----------------(引用おわり)

ここでの二村氏の主張は、反論として全く意味をなさない。私は「労働者の声」の用いる「同業組合」という語が同時期の高野の諸論稿には現れないことを指摘したのである。その語が高野の文章に現れるのが七年後の「職工諸君に寄す」まで待たねばならないのなら、むしろそれは私の指摘を補強しているわけだ。また私は、高野は終始一貫して「同盟罷工」の語を使っているのに対し、「労働者の声」では「罷工同盟」の語が多用されていることの矛盾を指摘しているのである。「「労働者の声」では、「罷工同盟」と同時に「同盟罷工」の語も使っている」などという二村氏の指摘が全く反論になっていないのは、いうまでもない。

労働組合やストライキを指す言葉は、「労働者の声」でも高野の諸論稿でも、最も重要なキー概念である。そのキー概念を表す言葉に食い違いがある以上、「労働者の声」の筆者は高野ではないと考えるのが自然であろう

3.4 『国民之友』の編集者が外部からの投稿を「加筆訂正」し自誌の社説とした、などという想定は妥当か?

「労働者の声」と高野の諸論稿とは、重要なキー概念を表す用語の使い方に齟齬がある、という私の指摘に対し、二村氏は「再論(3)」で次のような反論を試みている。

----------------(引用はじめ)
用語をめぐる大田氏の批判において、何より問題となるのは、「労働者の声」の場合、掲載に際して、蘇峰ら編集者による加筆訂正が加えられた可能性がきわめて高い事実を無視していることです。
----------------(引用おわり)

おそらく二村氏は、「労働者の声」と高野の文章とが、論旨においても用語においても齟齬のあることに気づいており、それを覆い隠すために、「編集者による加筆訂正が加えられた可能性がきわめて高い」などという説を案出したのであろう。この説(以下、これを「加筆訂正」説と呼ぶ)の前提として、二村氏は次のように説明している。

----------------(引用はじめ)
高野房太郎は、すでに論壇デビューを果たしていました。それも、日刊の全国紙『読売新聞』の寄稿家として、実績をあげていたのです。「労働者の声」掲載の3ヵ月前には、『読売新聞』紙上に「北米合衆国の労役社会の有様を叙す」を11回にわたって連載しています。掲載年月日は、1890(明治23)年5月31日に始まり、6月7日、10日、13日、18日、19日、23日~27日です。優秀なジャーナリストであった徳富蘇峰は、たえず新たな海外情報を入手するため、アンテナを張っていたはずで、おそらく高野房太郎論文も読んでいたことでしょう。 さらに言えば『国民之友』には「東京各新聞の社説」という、毎号掲載される記事枠があります。この欄を維持するには、民友社は主要新聞をすべて購読し、これを読む担当記者を置く必要があったに相違ありません。房太郎の「米国通信」、とりわけ米国の労働社会という特異なテーマを扱った力作、しかも11回もに分け、長期間掲載された「北米合衆国の労役社会の有様を叙す」が、蘇峰ら民友社記者の目にとまらなかったとしたら、その方がよほど不思議です。山路愛山の文才を、初対面で見抜いた徳富蘇峰のことです、「北米合衆国の労役社会の有様を叙す」を読んで、高野房太郎の知識・才能を評価していた可能性は高いと思われます。
----------------(引用おわり)

まず二村氏の単純な誤りから指摘しておこう。当時の『読売新聞』は「全国紙」ではなく(そもそも当時は「全国紙」自体が存在しないが)、その勢力範囲は東京に限られていた。

それはともかく、二村氏が「加筆訂正」説を唱えるからには、当然出てくる次のような疑問に、二村氏はぜひとも答えなければならない。

①二村氏も知っているとおり、『国民之友』には外部の投稿を受け入れるための寄書制度(一般の投書家による投稿、および著名な有識者や有望な若手に委嘱された「特別寄書家」による寄稿)がある。高野房太郎が「労働者の声」の原稿を『国民之友』に投稿したと仮定する場合、なぜ『国民之友』編集部はこれを一般の投稿として扱わず、自誌の「社説」として掲載したのか?(ちなみに『国民之友』にそのような事例が一つも存在しないことは、【1】で述べたとおりである)

②『国民之友』(民友社)が多くの若手の学者・評論家・作家・詩人の才能を見出し、彼らを『国民之友』で論壇・文壇デビューさせ、「特別寄書家」の列に加えるなどして数々の才能を開花させたことは、よく知られている。仮に、二村氏のいうように、蘇峰ら『国民之友』編集者が『読売新聞』を読み、「高野房太郎の知識・才能を評価していた」としても、なぜ『国民之友』は「特別寄書家」の待遇を高野に与えず、高野の投稿を勝手に「加筆訂正」して自らの社説とするばかりか、高野の名を伏せたまま、その名を以後も全く表に出さなかったのか?(それは当時の論壇社会の通念においても決して許されない剽窃行為であり、民友社がこんな不正を働いた事例は聞いたことがない。)なぜ民友社は以後も、『国民之友』に高野の投稿をただのひとつも掲載することがなかったのか?なぜ『国民之友』と比べて格下の『国民新聞』にただ一度だけ高野の投稿を載せるにとどまったのか?それは「高野房太郎の知識・才能を評価していた」という仮定と矛盾しないか?

③『国民之友』が高野の投稿に勝手に「加筆訂正」し、高野の投稿文という事実を伏せて社説として掲載した、と仮定してみよう。『国民之友』はそうした剽窃行為を行うばかりか、高野を「特別寄書家」の列にも加えず、彼を無視し続けている。高野はこのような民友社の不正と非礼をなぜ黙認したのか?高野は『読売新聞』で論壇デビューしたばかりであり、自分の名前を論壇に売り出すことは彼にとって重要だったはずだ。とりわけ『国民之友』は、当時の若手の論客や駆け出しの作家にとって、論壇・文壇への登龍門として重視されていた。なぜ高野は民友社に抗議しなかったのか?なぜ高野は社説「労働者の声」の本当の筆者は自分だと誰にも言わず、以後も沈黙を通したのか?

④高野はあえて『国民之友』に貸しを作ったのだと、無理やりに仮定してみよう。しかしその後高野は『国民之友』から何らの見返りを求めた形跡もなく、『国民之友』から無視され続けている。高野は格下の『国民新聞』に一度投稿しただけで、『読売新聞』『東京経済雑誌』『太陽』などに分散して投稿している。それはなぜか?

以上のように、高野房太郎の投稿文を徳富蘇峰ら『国民之友』編集者が「加筆訂正」し、高野の名を伏せて自らの社説として掲載した、などという不自然な説を二村氏が主張し続ける限り、合理的には説明のつかない矛盾や不都合に次々とぶつからざるを得ないのである。そもそも社説「労働者の声」の筆者は高野であるなどという、およそありそうにない説に固執せず、他の社説と同様に民友社員の記者がこれを執筆したと考えれば、何の矛盾や不都合にもぶつからずに済むのであるが。

二村氏はそれでもなお、無理矢理なこじつけで、上の「加筆訂正」説を強引に主張しつづけようとするかもしれない。そこで私は、二村氏の「加筆訂正」説が学術的に決して成り立たないことを立証しておく

二村氏が「加筆訂正」説を「論証」する筋道は、次のとおりである(二村、前掲書、100~101頁。なお、この「論証」は、WEB版『二村一夫著作集』第6巻の「高野房太郎とその時代(38)」でも繰り返されているので、興味のある読者は確認してほしい)。

(a) 『国民之友』93号(1890年9月3日)の時事欄に掲載された「労役者の組合」という小文がある。この小文と、社説「労働者の声」とは、「同じ雑誌に、同様な主題の文章があいついで掲載され、論旨も一致」している。
(b) したがって、社説「労働者の声」と「労役者の組合」の筆者は同一人物である。
(c) 「労役者の組合」は労働者の「団結」に相当する言葉として、「結合」の語を用いている。
(d) ところが、「労働者の声」では「結合」ではなく「団結」という語が多く用いられている。
(e) 「労働者の声」と「労役者の組合」の筆者は同一であるにもかかわらず、「労働者の声」が「団結」という言葉を用いているのはなぜか。それは、もともと「労働者の声」の原稿には「結合」という語が用いられていたはずだが、この原稿を社説として掲載する際に、『国民之友』の編集者が、「「結合」という言葉が日本語として熟していないと判断し、これを改めたから」である。
(f) したがって、社説「労働者の声」は、「筆者の草稿そのままではなく、『国民之友』の編集者の筆が入っている」と判断される。

この二村氏の「加筆訂正」説の「論証」は、二つの前提条件によって成り立っている。第一は、社説「労働者の声」と「労役者の組合」の筆者は同一人物だという前提第二は、『国民之友』の編集者が「「結合」という言葉が日本語として熟していないと判断」したという前提

まず二村の第一の前提の当否については、あえて今は問わない。

ここで問題にしたいのは、第二の前提である。二村氏によれば、『国民之友』の編集者は、「労働者の声」の原稿の中に頻出していたはずの「結合」という言葉が日本語として熟していないと判断し、これを社説として掲載する際に、「団結」の語に改めたのだ、というのである。さらに二村氏は「再論(3)」で次のように書いている。

----------------(引用はじめ)
用語をめぐる大田氏の批判において、何より問題となるのは、「労働者の声」の場合、掲載に際して、蘇峰ら編集者による加筆訂正が加えられた可能性がきわめて高い事実を無視していることです。高野房太郎は、今なら「団結」というであろう箇所を、もっぱら「結合」の語を用いていました。これは一貫した高野房太郎の文章の特色です。「労働者の声」と同一筆者が執筆したものと考えられる「労役者の組合」では、団結の語はなく、すべて「結合」が用いられています。これは「労役者の組合」が、雑誌巻末の記事欄掲載の短文で、投稿がそのまま使われたからでしょう。これに対し「労働者の声」は、社説欄に掲載された論説です。この場合、蘇峰ら編集者による加筆訂正があったことは、容易に想像されます。「労働者の声」では「大結合」という複合語で「結合」の語が使われていますが、他には「結合」はなく、もっぱら「団結」が用いられています。これはおそらく、編集者が、「結合」という語は日本語として熟していないと考え、書き換えたからだろうと推測されます
----------------(引用おわり)

つまり二村氏の推測によれば、「労働者の声」の元原稿には、労働者の「団結」を表す言葉として、高野房太郎が一貫して愛用していた「結合」という語が用いられていたはずだが、蘇峰ら『国民之友』編集者は、この「結合」という言葉が社説の日本語として熟していないと判断し、「団結」の語に書き換えたのだというのである。そして二村氏は、この推測をもって「加筆訂正」説の根拠としているのである。こうした二村氏の推測が正しいかどうかは、労働問題をテーマとして扱った『国民之友』の他の社説を実際に検討すれば、すぐに明らかとなる。

まず、社説「平民的運動の新現象」(69号、1890年1月3日)から引用しよう。なおこの社説は『蘇峰文選』(民友社、1915年)に収録されていることからわかるように、徳富蘇峰が自ら執筆したものである。ここで蘇峰は、1889年の有名なロンドン・ドック・ストライキにおける労働者の団結を念頭に、次のように述べているのである。

弱者の権の要所は只結合に在り、数多の貧人結合し、是に於て少数の富人に抵抗するを得、数多の愚者結合し、是に於て少数の智者に抵抗するを得、数多の無権者結合し、是に於て少数の権者に抵抗するを得

次に、社説「平民主義第二着の勝利」(139号、1891年12月13日)を検討する。この社説も『蘇峰文選』に収録され、執筆者は蘇峰である。

多数を占む、既に勢力なり、況や之が結合して、一の団体を為すに於てをや、所謂合すれば強を成すとの訓言は、既に欧米諸国に於ける職工同盟に於て、実行せられたり」

彼の職工…(中略)…富を有する一個人、若くは此の少数人の団結に向て、戦を挑み、或は交綏し、或は捷ち、動もすれば彼等をして、和を請はしむるに到りたる所以の者は何ぞや、其結合に拠るなり

結合には、強迫的の結合と、随意的の結合あり、而して彼の職工同盟の如きは、随意的の結合なり、其の結合をして、鞏固、確実、有力ならしむるに就ては、…(後略)

以上から明らかなように、『国民之友』の主宰者・主筆・編集責任者である徳富蘇峰自身が、「労働者の声」の前後の時期にあたる二つの社説で、労働者の「団結」を表す言葉として「結合」という語を数多く用いているのである。したがって、『国民之友』の「編集者が、「結合」という語は日本語として熟していないと考え」ていた、などという二村氏の思い込みは、完全に否定されることになる。

繰り返すが、「労働者の声」の元の原稿にあった「結合」という文字を、『国民之友』の編集者が日本語として熟していないと考え、社説として掲載する際に「団結」の語に改めた、などという二村氏の推測は、全く当たっていない。この誤った推測を必須の前提として二村氏が組み立てた「加筆訂正」説は、今やその根底から崩れ去ったといわねばならない。

高野房太郎の諸論稿は、労働者の「団結」を言い表すのに、一貫して「結合」という言葉を用いていた。しかし、社説「労働者の声」は「団結」という言葉を多用している。二村氏は、高野房太郎が「労働者の声」を執筆したという説を維持するために、『国民之友』の編集者が高野の原稿を社説として掲載する際に「結合」の語を「団結」の語に改めた、などと無理やりに想定したが、この想定の根拠はもはや存在しない。「労働者の声」の原稿は最初から「団結」という語を用いていたと考えるべきである。

「労働者の声」は、労働者の「団結」・「罷工同盟」・「同業組合」という、全体の論旨のキーワードにおいて、同時期の高野の諸論稿とは用語法が大きく異なっている。この不都合な事実を二村氏が覆い隠すために主張した「加筆訂正」説も、すでにみたように、もはや存立の余地はないのである。

3.5 小括

以上本節では、高野房太郎が「労働者の声」の筆者であるという二村一夫氏の主張の根拠を再検討してきた。二村氏は、「労働者の声」と、同時期の高野の諸論稿とが、論旨・呼びかけの姿勢・用語などの面で一致するとし、そのことをもって高野が「労働者の声」の筆者であると断言していた。しかし、上に詳しく検討したとおり、二村氏の説明とは異なり、「労働者の声」と同時期の高野の諸論稿とは、論旨・呼びかけの姿勢・用語のいずれの面においても、重要な点で異なっている。二村氏は、「労働者の声」と高野の諸論稿とで重要な用語が異なっていることについて、それは『国民之友』の編者が高野の原稿を「加筆訂正」したからだ、などという説を主張したが、この説も事実無根であることが明らかになった。

以上の検討から、高野房太郎が「労働者の声」の筆者であるという二村一夫氏の主張は、学術的な根拠をすべて否定されたといわねばならない。

【おわりに】

以上、本稿では【1.『国民之友』の無署名社説に「社外執筆者」は存在するか?】・【2.「労働者の声」の筆者は民友社員ではないのか?】・【3.高野房太郎が「労働者の声」の筆者であるという二村一夫氏の主張の根拠は妥当か?】という三つの事柄について、二村一夫氏の「再論(3)」での反論を詳しく検討してきた。

その結果、【1】については、当時の高野房太郎のように民友社とは無縁な若者が『国民之友』の無署名社説を執筆したなどという事例は一つも確認できず、また『国民之友』の社外投稿者の名を記した一覧表にも高野房太郎の名は見いだせないことを明らかにした。【2】については、『国民之友』は労働問題にまったく無関心だった、などという二村氏の断定が事実無根であり、むしろ社説「労働者の声」は『国民之友』における労働問題論の展開過程の中にしっかりと位置づけられることを明らかにし、したがって「労働者の声」を執筆したのは徳富蘇峰・竹越三叉を中心とする民友社内の記者であると考えるのが、学術的に合理的な推論であることを示した。【3】については、「労働者の声」は同時期の高野房太郎の文章と比較して、論旨・呼びかけの姿勢・用語のいずれにおいても重要な部分で食い違っており、高野房太郎を「労働者の声」の筆者であると断定する二村氏の主張の根拠はすべて否定されることを示した。

以上の検討から、『国民之友』の社説「労働者の声」の筆者を高野房太郎であるとする二村氏の説は完全に否定され、その筆者は、徳富蘇峰・竹越三叉を中心とする民友社内の記者であると考えるべきことが、論証されたわけである。

なお、二村氏は「再論(3)」の結びに、次のように書いている。

----------------(引用はじめ)
「竹越三叉執筆説」をとられる大田氏は、三叉のどの論稿、あるいは論稿群をもって、彼が「労働者の声」と完全に一致する主張を保持していたとお考えなのでしょうか? 文体、用語、論旨など、さまざまな面で、学兄が私に要求されている水準を満たす竹越三叉作品を、是非ともお教えいただきたいと存じます。 もっと率直に言わせていただけば、学兄の「二村批判」の根拠は「〈労働者の声〉竹越三叉執筆説」ですが、その主張は「徳富蘇峰証言」と佐々木敏二氏論文の2つに依拠されています。しかし、この2点の論稿は、「竹越三叉執筆説」を論証するための出発点とはなり得ても、そのまま「証拠」として使い得る内実を有してはいません。大田英昭氏の「二村批判」は、歴史科学が要求する最低限の史料批判を抜きに、自らの判断こそ正しいとの「思い込み」で議論を進めておられます。そうした手続き上の問題があったことへの自覚がおありでしょうか? 「二村批判」のためには、まず「竹越三叉執筆説」を実証する作業が必要だったのではありませんか?
----------------(引用おわり)

二村一夫氏はその著書『労働は神聖なり、結合は勢力なり―高野房太郎とその時代』(岩波書店、2008年)の本文の一節の全体(98~102頁)を用いて、「労働者の声」の筆者は誰かについて詳論し、「「労働者の声」の筆者は高野房太郎に違いない」(102頁)という断定を下したのである。二村一夫氏は自らの著書で断定した説の真実性について、専門研究者とりわけ労働史の大家として、重い責任を負っている。

なお二村氏の同書は、第15回社会政策学会学術賞第23回沖永賞を受賞するなど、社会的評価も高く、一定の「権威」をもっている。しかも、「労働者の声」の筆者は高野房太郎であるという断定は、WEB版『二村一夫著作集』第6巻の「高野房太郎とその時代(38)」でも繰り返されている。したがって、この著書(およびWEB版著作集)で展開された説が真実でない場合、その偽りの説が学界に対して与える悪影響は決して小さくない。

実際、例えば小松隆二氏は同書の書評で、この著作における「日本労働運動史全体に関わる理解を覆す新発見」の一つとして、「「労働者の声」の真の執筆者」が「高野と特定できること」を挙げているのである(小松隆二「書評と紹介―二村一夫著『労働は神聖なり、結合は勢力なり―高野房太郎とその時代』」『大原社会問題研究所雑誌』607号、2009年 5月)。

私が本稿で詳しく論証したように、「労働者の声」の筆者を高野房太郎と断定する二村一夫氏の説は、全く事実無根なのである。二村氏およびその著書の有する「権威」ゆえに、根拠のない偽りの説がまともに検証もされないまま、あたかも事実であるかのように学界に流通するのを、私は研究者の端くれとして見過ごすわけにはいかない。あえて二村氏の説を詳しく検討し、その根拠として氏が主張することの一つ一つが歴史的事実に反することを明らかにしたゆえんである。高野房太郎本人にとっても、自分が書いてもいない文章を自分のものだといわれるのは不本意であろう。

私が拙著『日本社会民主主義の形成―片山潜とその時代』(日本評論社、2013年)の第4章の注(73)で、二村氏の説を批判したのも、そのような思いからであった。なお私はこの注において、家永三郎氏の蘇峰証言と佐々木敏二氏の論文、および当時の竹越三叉の社会問題への関心の高さを示すいくつかの史料を根拠として、「民友社の幹部でもある竹越が「労働者の声」を執筆した蓋然性は非常に高いと考えられよう」(189頁)と書いた(したがって、そこでの私の説が「「徳富蘇峰証言」と佐々木敏二氏論文の2つに依拠されています」という二村氏の指摘は誤っている)。

ただし、私が主張したのはあくまで、竹越が「労働者の声」を執筆した「蓋然性」の高さであって、二村氏のように執筆者が誰かを断定したわけではない。私は、竹越を含む民友社内の社説記者の誰かが「労働者の声」を執筆したのは確実だと考えるが、その執筆者が誰であるかを断定したことはないし、今も断定できるだけの材料をもっていない。

私は、竹越が「労働者の声」を執筆した蓋然性は高いと今も考えている。しかし、正直に言えば、五年前に書いたことの根拠が不十分であったことも、今回の二村氏との論争を通じて痛感した。とくに、「労働者の声」の執筆者について考察するには、『国民之友』だけではなく『国民新聞』の膨大な論説の検討が不可欠であり、とりわけ文体について詳細な比較が必要であることを感じる。そうした今後の検討によって、竹越を執筆者とする蓋然性の高さは変化するかもしれないし、今まで名前が挙がっていない人物が浮上する可能性もある。私は自説への固執よりも、歴史的真実の探求を最優先にしたいと考えている。「労働者の声」の執筆者をめぐるさらなる検討は、今後の課題としたい。

再び二村一夫氏の反論に答える(2)――「労働者の声」(『国民之友』95号、1890年9月23日)の筆者をめぐって [日本・近代史]

前回の投稿に続き、「労働者の声」(『国民之友』95号)の筆者は誰か、をめぐる二村一夫氏(法政大学名誉教授)と私との論争で、二村氏の反論に対する私の応答の第二回目である。

今までの論争の経過については、本ブログの前回の投稿「再び二村一夫氏の反論に答える(1)――「労働者の声」(『国民之友』95号、1890年9月23日)の筆者をめぐって」を参照されたい。

【2.「労働者の声」の筆者は民友社員ではないのか?】

さて、前回の【はじめに 論争の経緯と問題の所在】で記したように、二村一夫氏が「労働者の声」の筆者は高野房太郎であると主張するためには、第二の条件として、その筆者が民友社員の記者ではないことを論証する必要がある。この点に関して、二村氏の「大田英昭氏に答える─〈労働者の声〉の筆者は誰か・再論(3)」(以下、「再論(3)」と略す)の議論を検討しよう。

2.1 『国民之友』の労働問題に関する社説について

二村氏は、「労働者の声」の筆者が民友社員ではないことを主張する根拠として、『国民之友』には「労働者の声」を除き労働問題に関する社説は皆無であると、次のように断定的に述べている。

-----------------(引用はじめ)
『国民之友』に掲載された労働問題に関する論説は、「労働者の声」を除けば、すべて「特別寄書家」によるものでした。家永氏は、『国民之友』の社説欄で「労働者の声」が例外的な論稿であることを認識し、ほかに労働問題に関する論説が皆無であるのは何故かを疑い、問うべきでした。
-----------------(引用おわり)

ここで二村氏が書いていることは、事実に反する

『国民之友』の社説欄に掲載された論説のうち、労働問題に関する社説は「労働者の声」(95号、1890年9月23日)にとどまらない。例えば、「平民的運動の新現象」(69号、1890年1月3日)「平民主義第二着の勝利」(139号、1891年12月13日)「社会立法の時代」(157号、1892年6月13日)「社会問題の新潮」(169号、1892年10月13日)は、いずれも社説欄に掲載された労働問題に関する論説である。

「平民的運動の新現象」は、徳富蘇峰の執筆した社説で、民友社の平民主義の新たな方向性を示す重要論説として、後年『蘇峰文選』(民友社、1915年)に収録されている。この論説で蘇峰は、「昨年八月来倫敦テームス河畔の船渠労役者の間に始まりたる罷工同盟」、すなわち1889年夏の有名なロンドン・ドック・ストライキに着目し、このストが「弱者の権の発達」において画期的な事件であることを強調する。「弱者の権とは何ぞや、多数の弱者連合して、協力して以て少数の強者に当る者なり」。「弱者の権の要所は只結合に在り、数多の貧人結合し、是に於て少数の富人に抵抗するを得、数多の愚者結合し、是に於て少数の智者に抵抗するを得、数多の無権者結合し、是に於て少数の権者に抵抗するを得」。こうした労働者の「結合」=団結による力の増大を、蘇峰は「平民的運動の新現象」と捉え、民友社の平民主義の発展する方向性が労働問題=社会問題にあることを示唆しているのである。

「平民主義第二着の勝利」も蘇峰の筆による社説で、やはり『蘇峰文選』に収録されている。この社説で蘇峰は、「富を以て武力を制し」た十九世紀の平民主義の「第一着の勝利」に続いて、今後の課題は「労作を以て富を制」する「第二着の勝利」に達することだと述べる。蘇峰によれば、この新たな平民主義は「労作の勢力」に基づくもので、とくに「欧米諸国に於ける職工同盟〔「トレードユニオン」とルビが振られている―引用者注〕」が注目される。この「随意的の結合」に基づく「労作の勢力」は、さらに教育の普及、参政権の拡大によって、政治的な力を獲得しつつある。例えば英国で、「総員百二十五万人」を擁する「職工同盟大会」の「二百の団結の代表者五百人」が「八時間勤労条例を実行することを議決」したように、この「労作の勢力」はやがて「富の分配に非常なる変動を生じ」、「手工労役者は必らず其の階級の絶対的に進歩上騰するを見」るだろう、というのである。

以上の社説が欧米の労働問題を素材としているのに対し、「社会立法の問題」「社会問題の新潮」は日本の労働問題をテーマとする社説である。「社会立法の問題」のほうは、「紡績所の増加するに従つて、十一二歳の少女が、一日三四銭の賃銀のために、線煙蒸々の中に十四時間も直立し、之がため肺病となりて夭死するが如き」状況の出現を背景として、児童労働者の労働時間制限や、「鉱業条例」による鉱夫の保護、「職工条例」による職工の保護など、「弱者、少数、労力の味方」となるような「社会立法」を為政者に要求したものである。

また、社説「社会問題の新潮」は、東京の石工および煉瓦積工のストライキや活版職工の動きを挙げて、「近世に於ける職工と雇主との軋轢は、欧米風の輸入病にあらずして、寧ろ社会発達の結果」であると指摘したうえで、「賃金問題」と「労働時間の問題」という「社会問題」において、「第二の奴隷解放の声は正に叫ばれん」としている今日、「社会問題研究会を組織」すべきであり、それを通じて「或は職工の応求希望を聴きて、其不当なるものは之を批評し、其正当なることは、之を雇主に勧告紹介し、雇主の議論を聴きて、また之を職工に紹介」するといった、労使間の紛争の仲裁を行うなどして、社会問題の「調和救正」に努めねばならない、と主張したものである。

以上みてきたように、『国民之友』の社説は「労働者の声」以外に「労働問題に関する論説が皆無」などというのは、二村氏の誤った思い込みにすぎない。『国民之友』は社説で労働問題について繰り返し論じており、「労働者の声」は決して孤立した社説ではないのである。

2.2 『国民之友』における労働問題をテーマとする論説について

二村氏は「再論(3)」で次のようにも書いている。

-----------------(引用はじめ)
『国民之友』の論説で労働問題をテーマに取り上げているのは、「労働者の声」を除けば、ボアソナード「日本ニ於ケル労働問題」、川村昌富「労働者ノ保護ニ就テ」、手島精一「職工ノ家計ト徒弟ノ教育」の3本だけで、すべて特別寄書家による寄稿です。
-----------------(引用おわり)

このように二村氏は、『国民之友』で労働問題をテーマに取り上げている論説は特別寄書家の3本の寄稿だけだと断言しているが、全くのでたらめである。私の確認した限りで、『国民之友』において労働問題をテーマに取り上げている論説を、下に列挙しておこう。いずれも長文の論説であり、短文の記事は含まれていない。

・社説「平民的運動の新現象」69号、1890年1月3日。
・酒井雄三郎「社会問題」81・82・83号、1890年5月3・13・23日。
・酒井雄三郎「五月一日の社会党運動会に就て」89号、1890年7月23日。
・社説「労働者の声」95号、1890年9月23日。
・「チヤムボレーン氏の国家社会説」121・122号、1891年6月13・23日。
・酒井雄三郎「五月一日及び総挙同盟罷工」122・123号、1891年6月23日・7月3日。
・添田寿一「工場条例の必要」130・131・134・139号、1891年9月13・23日・10月23日・12月13日。
・金井延「職工条例ヲ論ジ併セテ添田寿一氏ノ工場条例ノ必要ヲ論スルヲ評ス」133号、1891年10月13日。
・社説「平民主義第二着の勝利」139号、1891年12月13日。
・社説「社会立法の時代」157号、1892年6月13日。
・社説「社会問題の新潮」169号、1892年10月13日。
・ボアソナド「日本ニ於ケル労働問題」171号、1892年11月3日・
・金井延「日本ニ於ケル労働問題」178・180号、1893年1月13日・2月3日。
・蟠龍居士「貧民存在ノ原因」193・194号、1893年6月13・23日。
・酒井雄三郎「『社会問題』と『近世文明』との関繋に就きて」197号、1893年7月23日。
・公平庵主人「三大社会問題」199号、1893年8月13日。なお「公平庵主人」は添田寿一のペンネームである(広渡四郎『添田寿一君小伝』実業同志会、1924年、参照)。
・酒井雄三郎「社会問題の真相」217・218・219・210・211・222号、1894年2月13・23日・3月3・13・23日・4月3日。
・阪谷芳郎「土木工事ト労力問題トノ関係」225号、1894年5月3日。
・安部磯雄「欧米ニ於ケル社会問題」248号、1895年3月23日。
・川村昌富「労働者ノ保護ニ就テ」305号、1896年7月18日。
・手島精一「職工ノ家計ト徒弟ノ教育」320号、1896年10月31日。
・横山源之助「地方職人の現状」343号、1897年4月10日。
・クレマンソオ「仏国社会主義」354・355・356号、1897年6月26日・7月3・10日。
・片山潜「同盟罷工と社会」356号、1897年7月10日。
・小山健三「職工条例意見」361号、1897年9月10日。
・横山源之助「労働者の払底に就いて」362号、1897年10月10日。
・片山潜「工業奨励に就いて」364号、1897年12月10日。
・横山源之助「紡績工場の労働者」366号、1898年2月10日。
・横山源之助「工業社会に於ける一弊竇」368号、1898年4月10日。

以上、『国民之友』で労働問題をテーマに取り上げた主な論説は、管見によれば少なくとも29編(うち社説5編、特別寄書21編)、掲載回数は延べ45回におよぶ。これ以外の記事・小文も合わせれば、労働問題関係の論説・記事の総計はこの数倍の数となるだろう。上述のごとく二村一夫氏は「『国民之友』の論説で労働問題をテーマに取り上げているのは、「労働者の声」を除けば、ボアソナード「日本ニ於ケル労働問題」、川村昌富「労働者ノ保護ニ就テ」、手島精一「職工ノ家計ト徒弟ノ教育」の3本だけで、すべて特別寄書家による寄稿です」などと断言しているが、それがいかに事実からかけ離れているか、唖然とするほかない。二村氏がもしも本当に『国民之友』を通読したことがあるなら、こんなでたらめを書けるはずはないのだ

2.3 『国民之友』(および民友社)は労働問題に無関心だったか?

さらに二村氏は「再論(3)」で次のように書いている。

-----------------(引用はじめ)
さらに、同志社大学人文科学研究所が作成した『国民之友総索引』で、「労働」に分類されている論説、記事は、総数で34本です。1号平均50本掲載されているとして、372号分で18,600本中の34本です。『国民之友』の労働問題への無関心さは、この数値に明瞭に示されています。つまり徳富蘇峰を主筆とする『国民之友』は、「時事欄」をふくむ全誌において、労働問題に、まったくと言ってよいほど、関心を示してはいないのです
-----------------(引用おわり)

まず、単純な誤りから指摘しておこう。『国民之友総索引』(明治文献、1968年)は「同志社大学人文科学研究所」ではなく「立命館大学人文科学研究所・明治大正史研究会」が編纂したものである。また、この総索引で「労働」に分類された論説・記事の総数は34本ではなくて44本である。

そもそも上記の総索引は、論説・記事が複数の分類項目に重複することを許していないので、労働問題に関する論説や記事でも「労働」に分類されず、「経済」・「社会」・「文化」など他の項目に分類されているものが少なくない。例えば、労働問題をテーマに取り上げた上記の29編の重要論説のうち、総索引の「労働」に分類されているものは10篇にとどまる。とりわけ、欧米の労働問題を論じた多くの論説や記事は、「海外事情」の分類項目に含まれている。したがって『国民之友』の労働問題関係論説・記事は、上に二村氏が挙げた数値よりも、実際ははるかに多く、書評・評論などの小文を合計すれば、相当の数量にのぼるだろう。

また、二村氏のいう『国民之友』全372号分の全記事数の推計「18,600本」の大部分を占めているのが、時事的な小文や随筆、雑文、書評の類であることは、『国民之友』の目次を通覧すれば一目瞭然である。そうした全記事数の総計と、労働問題の関係論説・記事数とを比較することに、いったいどのような統計学上の意味があるのか、二村一夫氏にはぜひご教示いただきたい。例えば、『朝日新聞』の一年間の記事数の総計(スポーツ記事、料理などの生活記事、訃報記事等を含む)を分母とした場合に、憲法9条の改憲問題を論じた記事の割合がきわめて小さいからといって、『朝日新聞』の9条改憲問題への「無関心さは、この数値に明瞭に示されています」などと断言するような社会学者がいるだろうか?

『国民之友』が1890年頃から欧米の労働問題・社会問題をいち早くキャッチし、その啓蒙において日清戦争前の論壇をリードした事実は、研究者には周知のことだろう。かつて大河内一男氏は、『国民之友』が「日本の労働運動や社会主義運動にとっての源流としての意義をもっている」とし、「明治初年の自由民権思想と三十年代以後における社会主義運動・労働組合運動とを結ぶかけ橋の役割をつくした」と述べた(大河内一男「「国民之友」と労働運動」『国民之友』(復刻・縮刷版)第1巻〔明治文献、1966年〕所収)。鹿野政直氏も、『国民之友』が「労働する者への敬意と弱者への共感を通して、労働運動の発達を刺戟していった」ことを指摘している(鹿野政直「歴史学から見た『国民之友』」同上書、所収)。いずれも適切な評言である。なお『国民之友』における労働問題論の展開については、佐々木敏二氏の諸論考に詳しい(「『国民之友』における社会問題論」『キリスト教社会問題研究』〔18号、1971年3月〕、「民友社の社会主義・社会問題論」同志社大学人文科学研究所編『民友社の研究』〔雄山閣、1977年〕所収)。

こうした先行研究を頭から無視する二村一夫氏は、「『国民之友』は、「時事欄」をふくむ全誌において、労働問題に、まったくと言ってよいほど、関心を示してはいない」などと決めつけているが、『国民之友』の「全誌」を通読したとはとうてい思えない二村氏の恣意的断定にすぎないことは、もはや言うまでもない。とりわけ、産業革命が始まって間もない1890~93年の時期、民友社以上に労働問題について関心を示し、これを積極的に紹介・啓蒙して論壇をリードしたメディアがもしあったならば、二村氏にはぜひご教示いただきたいところだ。

さらに、二村一夫氏が民友社の論調を『国民之友』だけで判断しているのも、杜撰といわねばならない。徳富蘇峰・竹越三叉・山路愛山を中心とする民友社の論調は、1890年2月に刊行された『国民新聞』の社説・論説・記事をあわせて検討することで、全体として判断することがはじめて可能となる。

事実、『国民新聞』には、『明治文化全集』第15巻(日本評論新社、1957年)に収録された周知のものだけでも、「労働者の政治上に於ける勢力」(1892年6月15日)「聯合追放」(1892年10月28日)「労働問題」(1892年12月8日)「工場の立法」(1892年12月25日)など、労働問題をテーマとする社説が多々ある。高野房太郎の「金井博士及添田学士に呈す」も『国民新聞』への寄稿である(1892年5月20日)。おそらく当時の『国民新聞』を詳細に検討すれば、労働問題に関するさらに多くの論説や記事を発掘できるだろう。

2.4 「労働者の組織化に対する『国民之友』の熱意の冷却」について

二村氏はその著書『労働は神聖なり、結合は勢力なり―高野房太郎とその時代』(岩波書店、2008年)で、高野房太郎以外の者が「労働者の声」を執筆したとは考え難い理由として、次のように述べている(101頁)。

-----------------(引用はじめ)
仮に、この二つの論稿の筆者が高野房太郎ではないとすると、別の謎が生まれます。それは、労働組合や協同組合についてこれだけの知識をもち、日本の労働者の組織化にも強い熱意をもった人物が、たった一編の論稿と一本の小文を発表しただけで、その後いっさいの沈黙を守ったことです。
-----------------(引用おわり)

こうした二村氏の見解に対し、私は拙著『日本社会民主主義の形成―片山潜とその時代』(日本評論社、2013年)第4章の注(73)において、「労働者の組織化に対する『国民之友』の熱意の冷却は、徳富蘇峰や竹越与三郎らのその後の思想的転向を考えれば不思議ではないことから、この点も「労働者の声」を高野の執筆と断定する論拠にはなりえない」と指摘した。そもそも、「たった一編の論稿と一本の小文を発表しただけで、その後いっさいの沈黙を守った」というのは、『国民之友』を通読していないであろう二村氏の思い込み以外に、何の根拠もないのであるが。

これに対して二村氏は「再論(3)」で、次のように反論する。

----------------(引用はじめ)
「労働者の組織化への熱意」がまだ高かったではずの時期、つまり「労働者の声」が掲載されたその年、1890(明治23)年前半期の第6巻を例に、より具体的に見てみましょう。第69号から第86号までの計18号が発行されています。この間の「時事欄」の記事の総数は462本、1号平均25本余です。この多数の記事の中で広い意味で「社会・労働問題」に関連する記事は、以下の通りです。見出しの列記が可能なほど、数が少ないのです。内容を読むと「社会・労働問題」ではないものもありますが、ここでは、見出しで社会・労働問題らしいものは、あえて含めました。「社会各職業の大会」(76号)、「聖上の御慰問、貧民」(79号)、「米価の騰貴と貧民の乱暴」(79号)、「米商貧民を救う」(79号)、「小作人同盟の解散」(81号)、「社会問題の端」(81号)、「日雇人夫と小農」(84号)以上7点です。なお、この7点のうち、『総索引』の「労働」の項に分類されているのは、「小作人同盟の解散」以降の3点だけです。ご覧になってすぐ気づかれるでしょうが「労働者の組織化への熱意」と呼びうる記事は、ただの1つもありません
----------------(引用おわり)

産業革命が始まったばかりの当時、日本国内には実際にどのような社会・労働問題があり、それを各新聞はどの程度報道していただろうか?そうした当時の時代背景を考慮せず、単に『国民之友』の時事欄(もともと国内の政界の動静をめぐる風聞を中心とする)の中で社会・労働問題を論じた数が少ないという印象を述べるだけでは、何を分析したことにもならない。

ちなみに、日本資本主義がまだ発展途上の段階にあったこの時期、労働と資本の矛盾による典型的な労働問題についての報道が、海外(欧米)中心だったのは当然である。例えば上の2.2 で掲げた『国民之友』の労働問題論説リストにみえるとおり、81・82・83号および89号で特別寄書家の酒井雄三郎が、パリから欧州の労働問題を詳細に報じているのは、特に注目すべきである(後述)。

なお、上に二村氏が挙げた時事欄の記事の中で、重要なのは「日雇人夫と小農」(84号、1890年6月3日)である。この記事は、景気の悪化によって日雇い労働者が賃金の下落や失業に甘んぜざるをえない現状を問題とし、その解決策として労働者の「組合」の結成が次のように提唱されているのである。「我邦の有志者たる者、宜しく是儕日雇人夫の為に、組合を設けしめ、平生其組合に於て、若干の金銭を貯蓄し、之を以て危急の場合に応じて大なる困難なからしめざる可からず」。ここでいう「組合」の内容はまだ漠然としているが、「有志者」に呼びかけていることも合わせて、この記事は三か月後の社説「労働者の声」の論旨の胚珠とみることができる

さらに、二村氏は見落としているが、時事欄の社会・労働問題の記事として「鄙見」(86号、1890年6月23日)は特に注目すべきである。この記事は、福沢諭吉の主宰する日刊紙『時事新報』の「貧民救助策」を批判する形で、社会問題に対する『国民之友』独自の提言として五項目を示したものだが、その第四項で「労働者組合を作り其の貯蓄を奨励する」ことが提唱され、しかも「其の説甚だ長し、他日詳悉するの機ある可し」として、後日この課題を詳細に論じることが予告されているのである。

上の二つの記事の内容は、「労役者の組合」(93号、1890年9月3日)さらには社説「労働者の声」(95号、1890年9月23日)における労働者の組織化の具体的な主張へと発展してゆく萌芽とみてよい。ここに、この時期の『国民之友』において「労働者の組織化への熱意」がしだいに高まってゆく過程をみることができるのである。

なお二村氏は、次のように私に質問している。

----------------(引用はじめ)
ここで、大田英昭氏に伺いたい。「労働者の声」や「労役者の組合」を掲載したこと以外に、徳富蘇峰、竹越三叉らが、彼らの生涯にいおいて、何時、何処で、またいかなる形で「労働者の組織化」を企てたり、応援する活動を展開していたのでしょうか? 「熱意が冷却」する前の実態を、ぜひお教えいただきたいと思います。
----------------(引用おわり)

以下、私の見解を説明しよう。

竹越三叉が1880年代末から労働問題を含む社会問題に熱い関心を寄せていたことは、「社会問題の成行」(『六合雑誌』81号、1887年9月30日)「基督教徒の一大責任」(『六合雑誌』83号、1887年11月30日)「経済書と聖書」(『六合雑誌』114号、1890年6月17日)などに示されている。徳富蘇峰も、『国民之友』の社説「平民的運動の新現象」(69号、1890年1月3日)で、イギリスの労働者の団結による力の増大に注目し、ここに平民主義の新たな発展方向をみていたことは、上に述べたとおりである。

『国民之友』が社会問題の解決の手段として、労働者の組織化に具体的に着目したのは、特別寄書家である酒井雄三郎がパリから寄稿した「社会問題」と題する長大な論説(81・82・83号、1890年5月3・13・23日)が大きなきっかけになったと思われる。ここで酒井は、イギリスの「トレード・ユニオン」(労働組合)「フラインドリー・ソサイチー」(共済組合)「共同消靡会社」(消費協同組合)の仕組みを詳しく紹介し、こうした労働者の「自由の合意」に基づく自主的団結を、社会問題の有力な解決法として高く評価しているのである。

蘇峰なり三叉なり、民友社の『国民之友』記者が社会問題の解決法として労働者の組織化に着目するにあたって、酒井の論説「社会問題」がきっかけとなったことは、大いに考えられる。事実、酒井のこの論説が掲載された直後から、『国民之友』は時事欄で労働者の組織化を提唱しはじめる。上に触れた「日雇人夫と小農」(84号、1890年6月3日)「鄙見」(86号、同年6月23日)がそれである。また、高野房太郎がアメリカから『読売新聞』に寄稿した論説「北米合衆国の労役社会の有様を叙す」(同年5月31から6月27日にかけて連載)も、民友社の人びとに何らかの刺激を与えたかもしれない。その後、「労役者の組合」(93号、同年9月3日)を経て、社説「労働者の声」(95号、同年9月23日)において、『国民之友』の「労働者の組織化への熱意」は最高潮に達した。

ただし、『国民之友』における労働者の組織化の主張は、社会問題を解決するという目的に対する一つの手段に過ぎなかったことに注意せねばならない。社説「平民主義第二着の勝利」(139号、1891年12月13日)で、蘇峰が「多数の結合」に基づく「労作の勢力」の増大と勝利こそ平民主義の新しい趨勢とみて、欧米の労働組合運動に注目したことはすでに述べた。ただし蘇峰によれば、こうした平民主義の「第二着の勝利」は、今の段階では、すでに「富の勢力」=資本主義の発達した「泰西諸国」にのみ当てはまるもので、日本についてはまだ時期尚早だとして、次のように述べられている。「如何に国勢に向て鉄鞭を加ふるも、進歩の大理は、順序の践行を看過する能はず。然らば此勝利は、我邦に於ては、将来に於ける勝利として、予じめ之を待ち設く可きのみ」。このように蘇峰は、日本における労働運動の発展は将来の課題であるとして、これを先延ばしにしたのである。

こうした社会進化論的・漸進的な見解から、民友社は社会・労働問題解決の手段として、労働者の組織化は時期尚早として棚上げにする一方、政府の社会政策による労働者保護(社説「社会立法の時代」157号、1892年6月13日)や、有識者による労使間の軋轢の仲裁(社説「社会問題の新潮」(169号、1892年10月13日)といった方向に傾斜してゆく。さらに、蘇峰や三叉の平民主義から国家主義・帝国主義への漸次的移行が、この方向をいっそう変質させていく。その行き着く先に、三叉の「国家社会主義」(『世界之日本』第2巻第2号、1898年9月17日)の主張が現れてくる。私のいう彼らの「熱意の冷却」とは、おおよそこのような見通しのことを指しているのである。

2.5 小括

以上、『国民之友』の労働問題論についての二村氏の主張を検討してきた。労働問題に関する『国民之友』の社説は「労働者の声」のほかに存在しないという二村氏の断定、および、労働問題をテーマに取り上げた同誌の論説はわずか3本しかないという二村氏の断定は、いずれも事実に反することが明らかになった。実際は、労働問題に関する『国民之友』の社説は1890年から92年にかけて5本あり、労働問題をテーマに取り上げている主要論説は少なくとも29本存在することを、私は明らかにした。『国民之友』は労働問題にまったく無関心だった、などという二村氏の断言は事実無根である。『国民之友』(民友社)が欧米の労働問題・社会問題をいち早くキャッチし、労働問題の啓蒙において日清戦争前の論壇をリードする役割を担ったという評価は、私のみならず多くの思想史研究者の認める定説なのである。

二村氏は、社説「労働者の声」(およびその直前の記事「労役者の組合」)の労働者組織化の主張を、『国民之友』において例外的なものと思い込み、この社説の執筆者は民友社員ではない高野房太郎に違いないと想像力を膨らませたのであった。しかし実際は、徳富蘇峰ら民友社幹部は1890年初頭から欧米の労働組合運動に注目し、在仏の特別寄書家である酒井雄三郎による労働組合・協同組合・共済組合の高い評価に影響を受けて、時事欄で労働者の組織化を主張し始めたのであった。社説「労働者の声」(および時事欄の記事「労役者の組合」)は決して孤立した論説ではなく、『国民之友』における労働問題論の展開過程の中に、しっかりと位置づけることができるのである。

したがって、社説「労働者の声」を執筆したのは徳富蘇峰・竹越三叉を中心とする民友社内の記者であると考えるのが、学術的に合理的な推論である。二村氏のように、わざわざ無理筋の理屈づけをして、これを高野房太郎の筆であるなどと強弁する必要はないのである。

次回は、二村氏が「労働者の声」の筆者を高野房太郎であると断定する根拠を再検討し、二村氏の推論が学術的に全く成り立ちえないことを明らかにしたうえで、「労働者の声」の筆者にかんする私の現時点での見解を述べたい。

追記:続編として「再び二村一夫氏の反論に答える(3・完)」をアップしました(2018年6月18日)


再び二村一夫氏の反論に答える(1)――「労働者の声」(『国民之友』95号、1890年9月23日)の筆者をめぐって [日本・近代史]

【はじめに 論争の経緯と問題の所在】

まず、労働史研究者の二村一夫氏(法政大学名誉教授)と私との間の論争の経緯をふりかえっておこう。

論争の中心のテーマは、『国民之友』の95号(1890年9月23日)の社説欄に掲載された無署名の論説「労働者の声」の筆者は誰か、という問題である。「労働者の声」は、日本で最初に労働者の組織化を主張した論説として、日本の労働運動史上に記念碑的な意味をもっている。

この論争の前提として、次の二つの先行研究がある。

(a) 歴史家の家永三郎氏は、『国民之友』(民友社)主宰者の徳富蘇峰から、「労働者の声」の筆者は竹越与三郎(号は三叉)か山路愛山であろう、という証言を得ていた(家永三郎「「労働者の声」の筆者」『日本歴史』55号、1952年12月)。

(b) 上の証言をふまえて日本近代思想史研究者の佐々木敏二氏は、「労働者の声」の筆者について、山路愛山の筆とは考えにくく、竹越三叉の可能性が高いと推定しつつも、それを断定する決め手はないとした(佐々木敏二「民友社の社会主義・社会問題論」(同志社大学人文科学研究所編『民友社の研究』〔雄山閣、1977年〕所収))。

二村一夫氏と私との論争の経過は、次のとおりである。

①二村氏はその著書『労働は神聖なり、結合は勢力なり―高野房太郎とその時代』(岩波書店、2008年)において、「労働者の声」の筆者をこれまで探索した人はいないと述べ、その筆者について四つの論拠を挙げて、「「労働者の声」の筆者は高野房太郎に違いない」と断定した(98~102頁)。なお、ほぼ同じ趣旨の文章が、WEB版『二村一夫著作集』第6巻の「高野房太郎とその時代(38)」にある

②私は拙著『日本社会民主主義の形成―片山潜とその時代』(日本評論社、2013年)の「第4章 日本における「社会問題」論の形成」の注(73) において、二村氏が「労働者の声」の筆者をめぐる二つの先行研究を無視していることを指摘し、二村氏がその筆者を高野房太郎であると断定する四つの論拠はいずれも説得力に乏しいことを述べた。そのうえで「労働者の声」の筆者について、二つの先行研究と文章の内容から、竹越三叉の蓋然性が高いとした。(この注の全文は、文章を若干手直ししたうえで、本ブログ2014年5月5日の記事「「労働者の声」(『国民之友』95号、1890年9月23日)の筆者について」の中に再録してある。)

③二村氏は2018年4月、WEB版『二村一夫著作集』の「高野房太郎とその時代」の追補として、「大田英昭氏に答える─〈労働者の声〉の筆者は誰か・再論(1) 」と題する文章を掲げた。そこで二村氏は、先行研究を無視した自身の誤りを認めたうえで、家永氏による蘇峰証言の真実性に疑問を呈し、「労働者の声」の筆者として「社外執筆者」が存在する可能性を主張した。また、「労働者の声」の声の筆者は竹越三叉である蓋然性が高いとする私の説を批判して、文体と文章の内容とから、「三叉・竹越与三郎が「労働者の声」を執筆した蓋然性は、限りなくゼロに近い」と主張した。

④私は本ブログ2018年5月13日の記事「二村一夫氏の反論に答える―「労働者の声」(『国民之友』95号、1890年9月23日)の筆者をめぐって」において、『国民之友』の社説である「労働者の声」の筆者として「社外執筆者」の存在可能性を主張する二村氏の説に根拠がないことを指摘した。また、「三叉・竹越与三郎が「労働者の声」を執筆した蓋然性は、限りなくゼロに近い」とする二村氏の主張の根拠が説得力を欠くことを指摘したうえで、高野房太郎が「労働者の声」を執筆したという説が成り立ち得ない理由を再論した。

⑤二村氏は2018年5月20日、WEB版『二村一夫著作集』に「大田英昭氏に答える─〈労働者の声〉の筆者は誰か・再論 (2)」(以下、「再論(2)」と略す)と「大田英昭氏に答える─〈労働者の声〉の筆者は誰か・再論(3)」(以下、「再論(3)」と略す)を掲載した。二村氏は「再論(2)」で、「労働者の声」の筆者が山路愛山ではないことを述べ、「再論(3)」では、高野房太郎が「労働者の声」を執筆したという説は成り立ち得ないとする私の批判に反論し、高野執筆説を改めて主張した。

「再論(2)」での、「労働者の声」の筆者が山路愛山でないという二村氏の主張自体に、私はとくに大きな異論はない。そこで本稿では、主として「再論(3)」を検討の対象とする。

「再論(3)」の内容を具体的に検討する前に、まず「労働者の声」の筆者を高野房太郎と断定する二村一夫氏の説が成立するためには何が必要か、私の考えを示しておこう。

まず、「労働者の声」が、『国民之友』の「国民之友」欄に掲載された論説であることに注意する必要がある。「国民之友」欄の論説は『国民之友』の社説であり、蘇峰ないし蘇峰に代わる民友社員の記者が原則として無署名で執筆し、民友社の主義主張を掲げたものである。それは現在に至るまで、『国民之友』を史料として研究する者の共通認識といえる。

民友社とは何の接点もなかった高野房太郎が『国民之友』の社説を執筆したなどという、従来の民友社研究の常識から外れた突飛な説を二村氏が主張するには、次の三つの条件が必要である。

第一の条件として、『国民之友』の無署名社説を「社外執筆者」が書いたことの明らかな実例、それも当時の高野のように民友社とはおよそ無縁な若者が同誌の社説を執筆したという事例を挙げることが、二村氏には必要である。

第二の条件として、『国民之友』の社説「労働者の声」の筆者は民友社員ではない、と断定できる根拠を、二村氏は示さねばならない。

第三の条件として、高野房太郎が「労働者の声」の筆者であることを論証するに足る積極的な根拠を、二村氏は示さなければならない。なお二村氏は前掲著書『労働は神聖なり、結合は勢力なり―高野房太郎とその時代』で、文体と文章の内容とから四つの根拠を挙げたが、それらがいずれも説得力がないことを、私は前掲拙著および本ブログ2014年5月5日の記事で指摘してある。

以上三つの条件を二村氏の「再論(3)」が満たしているかどうか、それぞれ検討を加えてゆこう。

【1.『国民之友』の無署名社説に「社外執筆者」は存在するか?】

1.1 『国民之友』の寄書制度と社外者の投稿について

二村一夫氏は、民友社と何の接点もなかった高野房太郎が『国民之友』の社説「労働者の声」を執筆した可能性を主張する一つの理由として、『国民之友』の寄書制度(一般の投書家、および著名な有識者に委嘱された「特別寄書家」による)を挙げている。

この寄書制度は、二村氏があげつらうまでもなく、『国民之友』についていくぶんの知識をもつ者には周知のことである。『国民之友』における寄書の論説や創作・批評・雑文にはいずれも署名があり、文章の責任の所在が明示されている。つまりそれらは、民友社自身が責任をもって主義主張を掲げる「国民之友」欄の無署名社説とは、はっきり区別されているのである。したがって、こうした『国民之友』の寄書制度の存在は、特別寄書家ですらない高野房太郎が一般投書家として社説を執筆したという可能性を主張する根拠になるどころか、むしろそれを否定するものである。

ちなみに、『国民之友』第八巻総目録には、「我国民之友初号発刊以来今日まで投稿したる諸氏」(つまり1887年2月の創刊から1891年6月現在まで)の一覧表が掲載され、152人の社外投稿者の氏名を見ることができる(下の写真を参照)。しかし、その中に高野房太郎の名前はない。つまり、この期間(「労働者の声」が掲載された1890年9月23日を含む)において、高野が『国民之友』に投稿した事実は確認できないのである。
国民之友投稿者1.jpg
「我国民之友初号発刊以来今日まで投稿したる諸氏」『国民之友』第八巻総目録(復刻縮刷版『国民之友』第8巻〔明治文献、1966年〕所収)

1.2 鉄面生「山縣伯に与ふるの書」『国民之友』(86号、1890年6月23日)について

二村一夫氏は、『国民之友』の社説として社外執筆者の投稿が掲載された事例が存在するとして、次のように述べている。

-----------------(引用はじめ)
このほか ─ 大田氏にはとても信じ難いことでしょうが ─ 数は限られていますが社説欄=「国民之友欄」にも投稿が掲載された事実があります。それもご要望にピッタリの「民友社とはおよそ無縁で同誌に寄稿したことすらない無名の若者が同誌の社説を執筆したという実例」が存在するのです。「労働者の声」が発表されるちょうど3ヵ月前、1890(明治23)年6月23日発行の第86号 の巻頭論文「山縣伯に與ふるの書」がそれです。「労働者の声」が同じ「国民之友欄」ではあっても巻頭ではなく、論説の2番目に掲載されたのに対し、この「山縣伯に與ふるの書」は『国民之友』の文字通りの巻頭論文です。

(中略)

このように、「白面の一書生」の投稿が、『国民之友』の社説欄、それも巻頭に掲載された事例が、明白に存在するのです。今ではほとんど使われない言葉ですから念のために付記すれば、「白面」とは、年が若く経験の乏しい者、青二才を意味しています。大田氏が「民友社と何ら関係のない無名の青年高野が『国民之友』の社説の原稿を執筆したという、およそ異例に思われること」は、決して異例ではないのです。
-----------------(引用おわり)

ここで二村一夫氏は、「民友社とはおよそ無縁で同誌に寄稿したことすらない無名の若者」が『国民之友』社説を執筆した例として、『国民之友』(86号、1890年6月23日)の社説欄に掲載された、鉄面生なるペンネームの付された論説「山縣伯に与ふるの書」を挙げている。二村氏は、この論説の冒頭にある「余は白面の一書生」云々などという口上を真に受けて、これを社外執筆者による投稿と思い込んでいるらしい。

しかしこの論説は、二村一夫氏の不用意な臆測に反して、徳富蘇峰の執筆したものなのである。この文章はそのまま徳富蘇峰の著作『人物管見』(民友社、1892年)に転載され、さらに『蘇峰文選』(民友社、1915年)にも収録されている。

蘇峰文選1.jpg
『蘇峰文選』(民友社、1915年)目次。画像は国立国会図書館デジタルコレクションより。画像転載許可済み(国図電1801044-1-175 号)

この社説「山縣伯に与ふるの書」の内容は、山縣有朋首相に対して「自ら国務大臣の責任なる者は、議院に対する責任なる事を明言」することを要求し、議会無視の超然主義を採らないよう呼びかけたものである。『国民之友』は前年の第67号(1889年11月2日)に掲載した政治批判がもとで一か月に及ぶ発行停止処分を受けていた。蘇峰は再度の発停を覚悟しつつ、鉄面生なる仮名に託して、あえてこの論説を執筆・掲載したものと思われる。

なお、『国民之友』の1887年2月創刊号から1895年12月の第276号(竹越三叉の民友社退社が96年1月初めに公表されたので、ここを区切りとする)までの総目録を通覧すると、「国民之友」欄の社説のうち、外部からの投稿の形式をとったものが二つだけある。一つは上記の「山縣伯に与ふるの書」であり、もう一つは望教生なるペンネームの付された「板垣伯に与るの書」(114号、1891年4月3日)である。実は後者も、蘇峰の上記の著作『人物管見』に収録されており、やはり蘇峰の執筆したものであることがわかる。つまり、当該時期の『国民之友』において、二村氏の力説する「社説欄=「国民之友欄」にも投稿が掲載された事実」などというものは、一つも確認できないのである。

1.3 小括

繰り返すが、『国民之友』社説の位置づけをめぐって当事者や研究者の間で長年共有されてきた事実認識を、二村一夫氏があえて疑い、「「労働者の声」の筆者は高野房太郎に違いない」(二村、前掲書、102頁)などという断定的な主張を維持したいのであれば、まず『国民之友』の無署名社説を「社外執筆者」が書いたことの明らかな実例、それも当時の高野のように民友社とは無縁な若者が同誌の社説を執筆したという事例を挙げることが、第一の条件として必要である。しかし、そうした事例は(二村氏の不用意な思い込みを除いて)一つも確認することができない。そればかりでなく、『国民之友』の152人にのぼる社外投稿者の名を記した一覧表に、高野房太郎の名は見いだせないのである。

したがって、「労働者の声」の筆者を高野房太郎とする二村一夫氏の主張は、学術的な検証に耐える根拠を欠くものといわねばならない。

(以下、続く)

追記1:『蘇峰文選』の画像を追加しました。(2018年6月16日)

追記2:「再び二村一夫氏の反論に答える(2)」をアップしました。(2018年6月16日)

追記3:「再び二村一夫氏の反論に答える(3・完)」をアップしました。(2018年6月18日)

二村一夫氏の反論に答えるーー「労働者の声」(『国民之友』95号、1890年9月23日)の筆者をめぐって [日本・近代史]

明治時代の総合雑誌として著名な『国民之友』の95号(1890年9月23日)の社説欄に掲載された無署名の論説「労働者の声」は、日本で最初に労働組合の結成の必要を説いた文章の一つとして知られている。

日本の労働運動史上、記念碑的な意義をもっているこの論説は、いったい誰が書いたのだろうか?それについては古くから疑問とされ、詮索が行われてきた。

1952年、歴史家の家永三郎氏はこの疑問を解決すべく、晩年の徳富蘇峰(『国民之友』の創刊者・主宰者・主筆)のもとを訪れた際に、「労働者の声」の筆者について直接質問した。そのとき蘇峰は、これは自分が執筆したものでなく、竹越〔与三郎、号は三叉〕か山路〔愛山〕のものであろう、と明言したという(家永三郎「「労働者の声」の筆者」『日本歴史』55号、1952年12月)。

この重要な証言を踏まえつつ、日本近代思想史研究者の佐々木敏二氏は、「労働者の声」の筆者について、山路愛山の筆とは考えにくく、竹越三叉の可能性が高いと推定しつつも、それを断定する決め手はないとしている(佐々木敏二「民友社の社会主義・社会問題論」(同志社大学人文科学研究所編『民友社の研究』〔雄山閣、1977年〕所収))。私もおおむね佐々木氏の説に与するものである。

ところが近年、労働史研究者の二村一夫氏が、その筆者を高野房太郎とする説を唱えている(二村一夫『労働は神聖なり、結合は勢力なり―高野房太郎とその時代』〔岩波書店、2008年〕98~102頁)。なお、ほぼ同じ趣旨の文章が、WEB版『二村一夫著作集』第6巻の「高野房太郎とその時代(38)」にある)。

私は、二村氏の説は根拠に乏しいものと考え、拙著『日本社会民主主義の形成―片山潜とその時代』(日本評論社、2013年)の「第4章 日本における「社会問題」論の形成」の注(73) において、氏の説に批判を加えたうえで、「労働者の声」の筆者は竹越である蓋然性が高いことを指摘した。(この注の全文は、文章を若干手直ししたうえで、本ブログ2014年5月5日の投稿「「労働者の声」(『国民之友』95号、1890年9月23日)の筆者について」の中に再録してある。)

二村氏は最近、WEB版『二村一夫著作集』の「高野房太郎とその時代」の追補として、「再論・「労働者の声」の筆者は誰か?─大田英昭氏に答える(1)─」と題する文章を公開し、私の批判に対する反論を試みている。

以下、本ブログ記事では、二村氏の反論が果たして妥当なものかどうか検討を加えたうえで、二村氏の主張する「労働者の声」の筆者=高野房太郎説がとうてい成り立ち得ない理由を改めて示しておきたい。

【1.家永三郎氏の聞き取りによる蘇峰証言をめぐって】

二村氏は、その著書『労働は神聖なり、結合は勢力なり―高野房太郎とその時代』で、上記の家永氏の聞き取りによる蘇峰証言という重要史料の存在を見過ごすという大きなミスを犯している。拙著における私の批判点の一つはここにあったが、二村氏はご自身の誤りを率直に認めたうえで、さらに次のような議論を提起している。

---------------(引用はじめ)
  この蘇峰証言で、確かな事実として認めて良いのは、「自分が筆をとつて書いたのではない」という箇所です。これは本人が、その論文を読んだ上で確言しているのですから、信頼してよいと思います。これによって、嘉治隆一が「徳富の起筆にかゝると伝へられる」と記した伝聞が誤りであることは確定した、と言って良いでしょう。
  しかし、証言の後半部分、「竹越か山路であらう」という箇所は、「あらう」という言葉からも明白なように、蘇峰の推測による判断です。「労働者の声」の筆者を特定しているわけではなく、断定もしていません。竹越三叉か山路愛山の執筆であろうと、その蓋然性を述べているに過ぎません。このとき蘇峰は、「労働者の声」の「劈頭の部分を熟視して」はいますが、他に日記やメモを参照した様子はありません。つまり、89歳の徳富蘇峰が、27歳の時に編集刊行した『国民之友』に掲載した一論文の筆者について、記憶だけを頼りに答えたものです。蘇峰は、『国民之友』の論説記者のうち、こうした分野について書き得た人物は竹越三叉か山路愛山しかいなかったと考え、このように答えたものでしょう。おそらくこの時、蘇峰が、社外執筆者の存在に思い及ぶことは、なかったと思われます。なぜなら、家永三郎氏の質問は、「〈労働者の声〉が蘇峰の執筆か、他の同人の筆か、後者ならば誰の筆に成るものか」だったからです。この問いについては、前掲の「『国民之友』研究の思い出」に記されています。要するに、質問者も回答者も、最初から社外執筆者の存在を考慮していないのです。いずれにせよ、家永三郎氏の問いに対する蘇峰の回答が、さらなる検討を要するものであることは明白です。
---------------(引用おわり)

ここで二村氏が提起する論点は二つある。一つは、蘇峰証言における「竹越か山路であらう」という部分は、蘇峰の推測による蓋然性を述べているに過ぎないということ。もう一つは、家永氏と蘇峰との問答は、最初から社外執筆者の存在を考慮していないもので、この点は再検討を要するということ。

第一の論点からみよう。蘇峰証言が「労働者の声」の筆者を断定するものではなく、「蓋然性を述べている」ということについては、私もそのように考えており、異存はない。ただし、ここで蘇峰が、ともかく竹越と山路という二人の名前を明言した事実は、『国民之友』の社説欄がいかなるものだったかを考えるうえで、重要な示唆を与えている(後述)。

第二の論点に移ろう。家永氏と蘇峰との問答は、「労働者の声」の執筆者として「社外執筆者」が存在する可能性を念頭に置いていないことにそもそも問題がある、ということを二村氏は言いたいらしい。つまり二村氏は、家永氏も蘇峰も全然考えてもみなかった「社外執筆者」なるものが存在する可能性を主張している。だが二村氏の議論は、民友社(『国民之友』の発行主体)と何の関係もない高野房太郎が『国民之友』の社説を執筆したなどという、ありそうにもないことの可能性を残しておきたいためにする、無理筋の主張にすぎない。

「労働者の声」は、『国民之友』の「国民之友」欄に掲載された論説である。家永氏はこの「国民之友」欄について次のように説明している。「無署名であって、民友社の主義主張を発表する場所であり、蘇峰の政治的抱負を吐露するための欄である。従って大部分は蘇峰の執筆にかかると思われるが、なかには他の社員が執筆した文もあった」(「『国民之友』」『文学』23号、1955年1月)。また『国史大辞典』には北根豊氏による次の説明がある。「「国民之友」欄は社説欄に該当するところで、無署名であるが民友社すなわち蘇峰の主義主張を掲げた」(『国史大辞典』第五巻〔吉川弘文館、1985年〕)。

「国民之友」欄に掲載された論説は『国民之友』の社説であり、蘇峰ないし蘇峰に代わる民友社員の記者が無署名で執筆し、民友社の主義主張を掲げたものである、という見解は、現在に至るまで、『国民之友』を史料として研究する者の共通認識であろう。例えば、民友社研究で著名な西田毅氏がその著書『竹越与三郎』〔ミネルヴァ書房、2015年〕で、「民友記者として重用された三叉は、蘇峰とともに『国民之友』と『国民新聞』の社説を書いたが、のちに人見一太郎も三叉が書く社説の一部を執筆するようになった。『国民之友』の方は山路愛山も書くようになったという」(64頁)と記しているのも、同様の認識によるものだろう。

「労働者の声」が掲載された『国民之友』95号(1890年9月23日)の原本の縮刷版を確認すると、本号の「国民之友」欄に掲載された社説は「主動者の責任」(1~6頁)と「労働者の声」(6~11頁)の二編であり、ともに民友社の主義主張を掲げる社説としてふさわしい堂々たる内容と分量を備えている。

「労働者の声」をめぐる家永氏との問答で、蘇峰が「これは自分が筆を取つて書いたのではない、竹越か山路であらう、とはつきり答へた」のは、単に漠然と「蓋然性を述べている」にとどまらない。『国民之友』の社説の執筆者は、蘇峰か、蘇峰でなければ竹越・山路といった民友社員の主要な論説記者に限られていたという事実を、当事者たる蘇峰が示唆したものとみるべきではないだろうか。(ただし、山路の民友社入社は1892年であり、1890年の段階では『国民新聞』の寄稿者に過ぎなかった。社説の執筆者としては、他の民友社員の可能性も考える必要があるかもしれない。)

『国民之友』社説の位置づけをめぐって当事者や研究者の間で長年共有されてきた事実認識を、二村氏があえて疑い、「「労働者の声」の筆者は高野房太郎に違いない」(二村、前掲書、102頁)などという主張を維持したいのであれば、まず『国民之友』社説を「社外執筆者」が書いたことの明らかな実例、それも当時の高野のように民友社とはおよそ無縁で同誌に寄稿したことすらない無名の若者が同誌の社説を執筆したという実例を挙げることが、最低限必要だろう。さもなければ、「労働者の声」の筆者=高野房太郎説は、二村氏の願望の表現にすぎないといわねばならない。

【2.「労働者の声」竹越三叉執筆説をめぐって】

二村氏は、「三叉・竹越与三郎が「労働者の声」を執筆した蓋然性は、限りなくゼロに近い」と断定的に述べている。その根拠を二村氏は二つ挙げている。一つは「文体の違い」であり、もう一つは「文章の内容」である。

2.1 「文体」をめぐる問題

まず「文体の違い」について、二村氏の述べているところを検討しよう。

二村氏は、竹越の文章を山路愛山が「荘重典麗」と評したことを引きつつ、「竹越三叉の文章は、独特の形容を駆使し、多様な語彙を用いて、特有のリズム感をもっている」と述べる。そのうえで、名文家・美文家として知られた竹越の「荘重典麗」な文体の実例として、『新日本史(中巻)』(1892年)、「近日の文学」(『国民新聞』1890年5月16日〔二村氏が1893年としているのは書き間違いであろう〕)の一部を引き、また比較的説明的な文章の例として『人民読本』(1901年)を引いて、「「抑揚の妙を極めた散文詩」とか「荘重典麗」と言うには程遠い、理詰めの文章」である「労働者の声」とは文体が異なっていると、二村氏は主張している。

だが、二村氏のこうした比較の仕方に説得力はない。竹越が能文家であることは有名だが、そもそも能文家とは、単に〈荘重典麗〉な美文を書くだけでなく、文章の目的やそれを掲載する媒体に合わせてさまざまな種類の文体を駆使する能力をもっている。竹越の膨大な論説の中から都合のよいものを恣意的に引っ張ってきて、それを「労働者の声」の文体と表面的に比較し、文体が異なることをもって、「竹越与三郎が「労働者の声」を執筆した蓋然性は、限りなくゼロに近い」ことを主張する根拠になるなどと、二村氏は本気で考えているのだろうか?

竹越は「労働者の声」が書かれたのと同じ1890年の初めに民友社に入社し、とりわけ『国民新聞』社説ならびに論説記事を担当する記者として活躍した(西田、前掲書)。そもそも『国民新聞』は、当時の新聞界が知識人向けの政論新聞である「大新聞」と庶民向けの娯楽的な「小新聞」とに棲み分けられていた状況で、多面性と平易性を併せ持つ「中新聞」として蘇峰が企画し創刊したものであった(有山輝雄『徳富蘇峰と国民新聞』〔吉川弘文館、1992年〕10~15頁)。そのような「中新聞」を中心的に担う論説記者として、竹越は多くの無署名記事を執筆したのである。

私も二村氏にならって、竹越の執筆した『国民新聞』論説の中から恣意的に選び出してみよう。以下に引用するのは、「下層社会の智見を啓発するの一手段」(『国民新聞』1891年6月29日)(『民友社思想文学叢書第4巻 竹越三叉集』〔三一書房、1985年〕所収)という記事である。

如何にして富を下層の社会にも分配して貧富の喧騒を防ぐべきか、是れ第一の社会問題也。如何にして下層社会の智見を開発すべきか、是れ第二の社会問題也。第一問題を講ずるものは必らず第二問題に及ぼさざるべからず。吾人は此に下層社会の智見を啓発するの一案として、手軽るき書籍館を開かんことを望む。現今上野に政府の図書館あり、神田に私立の書籍館ありと雖も、是等は多くは学者の考証、若しくは銭なき書生を目当とする者にして、其蔵する所の書籍も多くは此目的に適したる者也。且つ其学問を目当として遊楽を目当とせざるや、朝の八九時に初りて夕の五時に終る、夕の五時は正さに是れ下層社会にある者が、営々として道途に汗絞るの時也。到底今日の書籍館を以て、下層社会を啓発するの用に供するに足らざる也。書生学者は自ら求めても智識を研くべし。種々なる便宜を与へて之を誘ふは、下層社会に於てこそ要ある也。吾人は神田、芝、日本橋若しくは地方の小都会に於て、社会改良に志ある者が一個の手軽き書籍館を設け朝より開館して夕の九時までも開き、普通学の一斑、卑賤より立身したる大人物の伝記、歴史の一斑、世界事情旅行記、清潔なる小説、新体詩、等を集めて丁稚、小僧、労働者等の智見を開発するに便ならしめんことを望む。

上の記事の文体と、二村氏が引用した同じ『国民新聞』での竹越の記事「近日の文学」の〈荘重典麗〉な文体とを比較すれば、竹越が多様な文体を状況に合わせて駆使できる能文家であったことが理解できるだろう。なお、上の記事にある「如何にして富を下層の社会にも分配して貧富の喧騒を防ぐべきか」という「第一の社会問題」についての竹越の言及は、内容的に「労働者の声」に通じるものとして注目すべきだろう。

2.2 「文章の内容」をめぐる問題

次に、竹越の著作と「労働者の声」とは「文章の内容」において異なる、という二村氏の主張を検討しよう。

二村氏は次のように述べている。

----------------(引用はじめ)
周知のように竹越与三郎は『新日本史』、『二千五百年史』、『日本経済史』など大部の通史・史論を刊行し、また『国民之友』をはじめ『六合雑誌』『国民新聞』『世界之日本』など数多くの雑誌・新聞に、多数の論稿を執筆しています。しかし、これらの著書や論稿のどこを探しても、「労働者の声」の筆者であれば、当然、論ずるであろう、労働問題に関する言及がないのです。
----------------(引用おわり)

二村氏は「これらの著書や論稿のどこを探しても…(中略)…労働問題に関する言及がない」と断言しているが、それは正しくない。

例えば、「経済書と聖書」(『六合雑誌』110号、1890年2月15日)という竹越の文章を次に引用しよう(引用に際し、原文の句読点を改めてある)。

今日の文明は、実に物質的文明の大に発達せるときなり。凡そ二三十年前の人が夢にも幻にも知らざりし事多く今日に行はれ、取り分け生産力、即ち物を作り出す力大に発達せり、例せば紡績器、若しくは活版器械は、蒸気器の如し、此等は器械が一振するや、数百千の工夫が汗水垂らして働くよりも、多量なる物品を製出す。…(中略)…其富なるものは、僅に少数の人々の手に入りて、其他の多数は、以前として貧しく、富と云ふ太陽は背の高き大金持の頭を照らすも、背の低き、小商人、小農夫、労働者の頭を照らすことなし。…(中略)…見よ、鉄道は長く日本を貫ぬく、然れども鉄道のために、無数の民は其職業を失す。見よ、製造会社は立つ、之がために無数の細民は其業を擲つ。…(中略)…今日の文明は、僅かに其富の製産のみを実行して、社会の富を、地主に、金利に、労働者の賃金に、農夫の所得に、分配を適宜にするの方を講ぜず

上の文章は「労働者の声」の七か月前のものだが、社会問題に対する竹越の関心のなかに、生産の機械化・巨大化に伴う失業の深刻化や、労資間の分配の不公平など、労働問題への視点の萌芽が表れていることは、ある程度見て取ることができる。

また、「国家社会主義」(『世界之日本』第2巻第2号、1898年9月17日)(前掲『民友社思想文学叢書第4巻 竹越三叉集』所収)で、竹越は次のように述べている。

第三級民は、決して生活の自由を有せず。彼等は其労力に相当なる賃金を受る能はず。彼等は安楽に其家族を養ふ能はず。…(中略)…殊に製造所の持主と職工との関係に至りては最も甚し。製造所の持主は、固より資本家なるが故に、其利益によりて更らに其事業を拡張し、其利益を増進するの道あるに引きかへて、職工は日々の所得によりて衣食し、衣食に費したる残余は幾何もあらず。而して時として疾病あり、時として災難あり、遂に一年を平均して何の貯蓄する所なきに至る。夫れ製造所の主人の資本が富なるが如く、職工の労力のまた一種の富也。然るに一方は其富を倍加しつゝ行く間に、一方は依然として其富を加ふる能はざるのみならず、遂に其労働の結果として、衰病を得て死し、家に一物を止めず、妻子離散、或は人の門によりて食を乞ひ、甚しきは転じて売淫窟に堕落するに至りては、豈に傷心の極ならずや。我輩は多くの職工の境遇は其血肉を売つゝ資本家の事業を経営する者なりと云ふの適当なるを見る。

上の論説には、明白に「労働問題に関する言及」をみることができる。労働問題への関心は、強弱の差こそあれ、少なくとも1890年代の竹越の論説の中にしばしばみられるのである。

『国民之友』には、「労働者の声」以後も、労働問題を論じた社説がしばしば現れる。例えば、「平民主義第二着の勝利」(139号、1891年12月13日)「社会立法の時代」(157号、1892年6月13日)「社会問題の新潮」(169号、1892年10月13日)などである。これらの社説は、労働組合・八時間労働制・職工条例・ストライキなど、労働問題を具体的に論じたものである。また『国民新聞』にも、「政治上に於ける社会主義」(1892年7月27日)「聯合追放」(1892年10月28日)「労働問題」(1892年12月8日)「工場の立法」(1892年12月25日)など、労働問題をテーマとする社説は少なくない(佐々木敏二「『国民之友』における社会問題論」『キリスト教社会問題研究』(18号、1971年3月)を参照)。これら『国民之友』『国民新聞』の社説はいずれも無署名であるが、社説を執筆する可能性のある民友社記者のなかでも、竹越は社会問題・労働問題に早くから関心を抱いていた以上、彼がこれらの社説にも関わっている可能性については今後検討する余地がある。

2.3 小括

以上検討してきたように、「三叉・竹越与三郎が「労働者の声」を執筆した蓋然性は、限りなくゼロに近い」と二村氏が主張する二つの根拠(竹越の文章と「労働者の声」との文体の違い、および両者の内容の違い)は、いずれも説得力を欠いている。したがって、二村氏の主張は客観的に支持され得ないものと結論できる。

【3.「労働者の声」高野房太郎執筆説が成り立ち得ない理由の追加】

【1】で述べたように、二村氏の「「労働者の声」の筆者は高野房太郎に違いない」(二村、前掲書、102頁)という主張が、そもそも歴史学的に検討の余地のある仮説として成り立つには、『国民之友』社説を「社外執筆者」が書いたことの明らかな実例、それも当時の高野のように民友社とはおよそ無縁で同誌に寄稿したことすらない無名の若者が同誌の社説を執筆したという実例を、二村氏自身が明示することが最低限必要である。だが二村氏はそれを全く明示できていない。

また、二村氏が「「労働者の声」の筆者は高野房太郎に違いない」という主張の根拠として挙げている四点が、いずれも根拠として薄弱であることについては、すでに拙著で説明したとおりである(本ブログ記事を参照)。

以上の理由だけでも、「「労働者の声」の筆者は高野房太郎に違いない」という二村氏の主張がもはや存立の余地のないことは明白だろう。

さらにここでは、「労働者の声」の文章の内容からみても、高野房太郎が筆者であるとは考えがたい理由を、一つ付け加えておきたい。

「労働者の声」の一節を下に引用する。

米国の如きも、ナイト、オフ、レバー(労働的の武士)なる者あり。其初や一種の秘密結社にして、其党員は皆暗語を有し、その徽号を有し、隠然たる運動を為せり。而して其勢力漸次に増加し、五年前に於ては、既に二百万人の会員を有するに至れり。亦盛なりと云ふべし。

ここで言及されている「ナイト、オフ、レバー」とは、1869年にフィラデルフィアで創立された労働団体の労働騎士団(Knights of Labor)のことである。二村氏は『明治日本労働通信』(岩波書店、1997年)の注のなかで、労働騎士団は1886年に最盛期に達したものの、同年のヘイマーケット事件やアメリカ労働総同盟(American Federation of Labor, AFL)の結成によって打撃を受け、急速に衰退していった旨を記している。

「労働者の声」における労働騎士団への言及は、「五年前」すなわち同団体の衰退前の情報を用いていることが明らかである。

一方、1890年当時アメリカに滞在中で、当地の労働運動を注視していた高野は、それよりもはるかに新しい情報に接する立場にあった。事実、高野がワシントン州タコマから1890年4月に『読売新聞』に寄稿した論説「北米合衆国の労役社会の有様を叙す」(同年5月31から6月27日にかけて連載)には、アメリカ労働運動の最新の情報を次のように記している。

今や米合衆国中において最も有力なる二個の会合、すなわち五十九万余人を率いるアメリカン・フェデレーション・オフ・レーボアー及び三十余万の会員を有するナイト・オフ・レーボアーは、本年五月一日を期し互いに連合して八時間労働請求の運動を為さんとす」(前掲『明治日本労働通信』所収、275頁)。

高野はAFLが最有力の労働団体として五十九万余人を擁し、労働騎士団はそれに次ぐ三十余万に過ぎないことを書いており、1890年5月1日の記念すべき第一回メーデーの予定まで熟知していた。彼は、「千八百八十六年十二月合衆国中における五十九個の労役者の会合が合してアメリカン・フェデレーション・オフ・レーボアーを形造」(同上書、276頁)ったことを、労働組合運動の強化の方向として重視していたのである。

二村氏によれば高野が「北米合衆国の労役社会の有様を叙す」を日本に向けて投函したのは4月30日である(二村、前掲『労働は神聖なり、結合は勢力なり―高野房太郎とその時代』93頁)。仮に高野が「労働者の声」の筆者だとすると、「労働者の声」の執筆は「北米合衆国の労役社会の有様を叙す」の投函から少し後のはずである。とすれば、なぜ「労働者の声」ではわざわざ五年前の古い情報に基づいて労働騎士団だけを紹介し、AFLについては全く言及しないのだろうか?なぜ第一回メーデーなどの最新の情報を伝えないのだろうか?全く不可解というほかない。このことも、「労働者の声」を高野が執筆した可能性が否定されるべき理由の一つである。

私は、高野の「北米合衆国の労役社会の有様を叙す」や、「日本に於ける労働問題」(『読売新聞』1891年8月7~10日)は、アメリカで労働組合運動に接し、労働問題について深く考察した高野でなければ書くことのできない稀有の論説だと思う。だが「労働者の声」は、高野でなくとも、日本で欧米の労働問題に関心を持ち、欧米から流れてくる書籍や新聞の情報に接する立場にある者なら、書くことができる内容であると考える。


追記:
私は中国在住のため、このブログ記事を書くにあたり、手持ちの乏しい史料と研究書・論文、および国会図書館デジタルコレクションでオンライン公開されている史料を用いるにとどまり、今回参照したくてもできなかった研究や史料が少なくない。したがって、「労働者の声」の筆者を確定するにはまだ程遠い状態にある。竹越あるいは他の民友社員の可能性を含め、「労働者の声」の筆者をめぐるさらなる追究は今後の課題としたい。

追記2:
文章の一部を補訂しました(2018年5月14日・5月15日)

追記3:
ここでの拙論に対する反論として、二村氏は2018年5月20日、WEB版『二村一夫著作集』に「大田英昭氏に答える─〈労働者の声〉の筆者は誰か・再論(3)」を掲載しました。それに対する私からの再批判として、本ブログに下の一連の論稿をアップしたので、ご参照ください(2018年6月18日)
再び二村一夫氏の反論に答える(1)
再び二村一夫氏の反論に答える(2)
再び二村一夫氏の反論に答える(3・完)

日本共産党と天皇制――国会開会式への出席をめぐって [日本・近代史]

一星忽焉として墜ちて声あり、嗚呼自由党死す矣、而して其光栄ある歴史は全く抹殺されぬ」。かつての自由民権運動の元闘士たちが伊藤博文によって籠絡され、立憲政友会(今の自民党の源流の一つ)の結成に向けて談合を進めていた1900年8月、幸徳秋水が憤激をこめてつづった「自由党を祭る文」(『万朝報』1900年8月30日)の一節だ。堂々たる「立憲政治家」となった元闘士たちよ、かつて自由民権の大義に殉じて志半ばに果てた多くの同志たちの犠牲を忘れたのか?幸徳はそのように問いかけながら、「自由党の死を吊し霊を祭」った。

日本共産党の志位委員長は2015年12月24日、天皇が臨席する来年1月召集の国会開会式に共産党議員が出席することを明らかにした(『しんぶん赤旗』2015年12月25日)。参議院本会議場の「玉座」から天皇が「お言葉」を述べるこの式への出席を1948年以来一貫して拒否してきた共産党にとって、根本的な方針転換といってよい。

戦前、いわゆる「絶対主義的天皇制」と共産党とは不倶戴天の敵であり、君主制廃止ないし天皇制打倒は1920年代から一貫した党の「民主主義革命」の方針だった。それに対して、「国体」(すなわち天皇制)の変革を目的とする結社に関わった者を処罰する治安維持法は、「共産主義者」を狙い撃ちにした。この弾圧法によって共産党員を中心に七万五千人以上の者が獄に囚われ、うち拷問や病気などによって千六百名以上が死亡したとされる(衆院予算委員会における総括質問、1976年1月30日)。戦前、無産政党が次々と戦時体制に妥協してゆくなかで、天皇制打倒を掲げて正面から日本帝国主義と闘った唯一の政党が共産党であり、その「光栄ある歴史」はいまなお輝きを放っているといってよい。

敗戦直後、旧無産政党諸派の人びとが設立した日本社会党は、「主権は国家(天皇を含む国民協同体)に在り」、「統治権は之を分割し、主要部を議会に一部を天皇に帰属し(天皇大権大幅縮減)せしめ天皇制を存置す」というように天皇の統治権を残したいわゆる君民共治の新憲法草案(1946年3月)を発表した。それに対して共産党は、その憲法草案(1946年6月)で「天皇制の廃止」と「人民に主権をおく民主主義的制度」を明記したのである。

共産党の1961年綱領は、現代天皇制について次のように規定した。「戦前の絶対主義的天皇制は、侵略戦争に敗北した結果、大きな打撃をうけた。しかし、アメリカ帝国主義は、日本の支配体制を再編するなかで、天皇の地位を法制的にはブルジョア君主制の一種とした。天皇は、アメリカ帝国主義と日本独占資本の政治的思想的支配と軍国主義復活の道具となっている」。

この部分は1994年の改定で、「天皇制は絶対主義的な性格を失ったが、ブルジョア君主制の一種として温存され、アメリカ帝国主義と日本独占資本の政治的思想的支配と軍国主義復活の道具とされた」というふうに変更された。すなわち、戦前と戦後の二つの天皇制の間の断絶が明確にされ、「アメリカ帝国主義と日本独占資本の政治的思想的支配と軍国主義復活の道具」としての天皇利用も過去形で表現されるようになった。ただし、憲法の「天皇条項」を「反動的」とし、また「民主主義革命」の課題として「君主制を廃止」することはなおも一貫して綱領に掲げられた

こうした天皇制に対する共産党の公式見解に大きな変更が加えられたのは2003年、第7回中央委員会総会における党綱領改定案についての不破哲三議長による提案報告および党創立81周年記念講演会での同氏の講演においてであった。ここで不破氏は、主権在民の原則が明確な現行憲法下の日本は君主制国家ではないと断言し、戦前の「絶対主義的天皇制」からの断絶をいっそう強調した。こうした認識のもと、当面は「天皇制と共存」すべきことを同氏は明らかにしたのである。なお同氏は上記講演で、「このことを見て、『共産党はいままでがんばってきた旗をおろして現実に妥協しすぎるんじゃないか』、こう心配する声も聞かれ」るが、それは「誤解」だと弁明している。

このような方針転換によって、共産党の2004年綱領では、天皇制を「ブルジョア君主制の一種」とするかつての文言が削除され、「民主主義革命」を経て樹立される「民主連合政府」においても「現行憲法の前文をふくむ全条項」がまもられる、すなわち天皇制が維持されるという方針を明確にした。その際、「天皇条項については、『国政に関する権能を有しない』などの制限規定の厳格な実施を重視し、天皇の政治利用をはじめ、憲法の条項と精神からの逸脱を是正する」ことが謳われるにとどめられた。共産党は将来の目標として「民主共和制の政治体制の実現をはかるべきだとの立場に立つ」ものの、天皇制の「存廃は、将来、情勢が熟したときに、国民の総意によって解決されるべきもの」であると、事実上棚上げされたのである。

なお、上記の2003年第7回中央委員会総会で不破議長は、共産党が国会開会式に参加しない理由を次のように述べた。

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現在、わが党の国会議員団は、国会の開会式に参加していませんが、これは、天皇制を認めないからではありません。戦前は、天皇が、帝国議会を自分を補佐する機関として扱い、そこで事実上、議会を指図する意味をもった「勅語」をのべたりしていました。いまの開会式は、戦後、政治制度が根本的に転換し、国会が、独立した、国権の最高機関にかわったのに、戦前のこのやり方を形を変えてひきついできたものですから、私たちは、憲法をまもる立場に立って、これには参加しないという態度を続けてきたのです。 
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また、『しんぶん赤旗』(2004年1月20日)は、「日本共産党国会議員団は、憲法と国民主権の原則を守る立場から〔開会式を―引用者補〕を欠席しました。現行の開会式は、戦前の帝国議会の儀式を引き継ぐもので、憲法の「国事行為」から逸脱するものです。日本共産党は、開会式を憲法が定める国民主権の原則にふさわしいものに改めるよう主張しています」と説明した。

戦前の大日本帝国憲法下では、立法権は天皇に属し、議会はその協賛機関に過ぎず、天皇は勅語によってしばしば政治に介入した。こうした政治制度は戦後の新憲法下で根本的に変化したが、しかし、国会開会式(旧帝国議会開院式)で天皇が参議院本会議場(旧貴族院本会議場)の「御席」(玉座)から「お言葉」(勅語)を述べるという形式は、戦前から受け継がれており、それは憲法で定めた国政に関する権能を有しない天皇の「国事行為」から逸脱し、国民主権の原則にも抵触している。したがって、共産党がそうした国会開会式に参加しないのは、天皇制を認めないからではなく、「憲法をまもる立場」に基づく行動なのだ、というわけである。

しかるに志位和夫委員長は、2015年12月24日の記者会見(『しんぶん赤旗』12月25日)で、従来共産党が国会開会式に欠席してきた理由と、来年1月の国会開会式に共産党が出席することにした理由とを、次のように説明している。

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 わが党が問題としてきたことは、おもに二つの点です。

 第一に、開会式の形式が、「主権在君」の原則にたち、議会は立法権を握る天皇の「協賛」機関にすぎなかった、戦前の大日本帝国憲法下の「開院式」の形式をそのまま踏襲するものになっているということです。

 第二に、以前の開会式では天皇の「お言葉」のなかに、米国政府や自民党政府の内外政策を賛美・肯定するなど、国政に関する政治的発言が含まれていました。これは、日本国憲法が定めている、天皇は「国政に関する権能を有しない」という制限規定に明らかに違反するものでした。

 わが党は、国会開会式が、現行憲法の主権在民の原則と精神にふさわしいものとなるよう、抜本的改革を求めてきました。

 一、その後、開会式での天皇の発言に変化が見られ、この三十数年来は、儀礼的・形式的なものとなっています。天皇の発言の内容には、憲法からの逸脱は見られなくなり、儀礼的・形式的な発言が慣例として定着したと判断できます。

 一方で、開会式の形式が戦前をそのまま踏襲するものとなっているという問題点は、現在においても変わりがないということも、指摘しなければなりません。

 一、こういう状況を踏まえての今後の対応について表明します。

 日本共産党としては、三十数年来の開会式での天皇の発言の内容に、憲法上の問題がなくなっていることを踏まえ、今後、国会の開会式に出席することにします。

 同時に、開会式の形式が、戦前をそのまま踏襲するものとなっているという問題点は、根本的な再検討が必要であることに変わりはありません。わが党は、それが、現行憲法の主権在民の原則と精神にふさわしいものとなるよう、引き続き抜本的改革を強く求めていきます。そうした抜本的改革を実現するうえでも、今後は、開会式に出席することがより積極的な対応になると、判断しました。
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すなわち志位氏によれば、従来共産党が国会開会式に参加しなかった理由は、(1) 開会式の形式が戦前からそのまま踏襲されている(2) かつての天皇の「お言葉」の内容に政治的発言が含まれており憲法違反であった、という二点だった。うち(2) の問題は三十数年来解消されているので、憲法違反もなくなった。他方、(1) の問題は変わらず残されているが、共産党は国会開会式に出席することで、(1) を改革するための積極的な対応も可能となる、というのである。

しかし志位氏の説明は、六十七年前から続く方針を現時点で大転換する根拠についての説得力が乏しいように思う。上に記した2003年第7回中央委員会総会における不破議長の報告や『しんぶん赤旗』(2004年1月20日)の説明にあるように、国会開会式に共産党が欠席してきたのは、志位氏が挙げた(1) こそ最大の理由であったはずだ。すでに三十数年前から(2) が解決していたからといって、なぜ〈今〉の時点で長年の方針を一大転換しなければならないのだろうか?

この方針転換について、マスメディアは「来年夏の参院選をにらんだ現実路線の一環」(共同通信 )、「現実路線への転換を一段とアピールする狙い」(時事通信)など政局上の見方を示している。私を含め党外の人びとからすれば当然の推測だろう。

なお志位氏が上記の記者会見で次のように述べたことは驚きを禁じ得ない。

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さきほどのべたような状況のもとで、欠席という態度を続けた場合には、わが党が天皇制反対という立場で欠席しているとの、いらぬ誤解を招き、憲法の原則と条項を厳格に順守するために、改革を提起しているという真意が伝わりにくいという問題があります。その点で、出席した場合には、そうした誤解を招くことなく、憲法順守のための改革を提起しているという、私たちの真意がストレートに伝わることになると考えました。
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今の共産党は、「わが党が天皇制反対という立場で欠席しているとの、いらぬ誤解」を何としても解かねばならない、と考えているということだ。さらに、国民連合政府が実現した場合、認証式はどうするか〉という記者の質問に対して、志位委員長は「認証という行為は国事行為だ。だから当然、認証式は現行の認証式に出席するということに当然なる。国事行為だから」と答えたという宮内庁のHPによれば、認証式(認証官任命式)とは、任免につき天皇の認証を必要とする国務大臣その他の官吏(認証官という)の任命式で、その際に天皇から「お言葉」があるのが慣例である。これは大日本帝国憲法下における「親任官」の「親任式」を受け継ぐものである。「皇室儀制令」(1926年)は、帝国議会の開院式および閉院式は貴族院で行い、親任式等は宮中で行うことを定めており、これが現在も踏襲されているのだ。

そもそも国会開会式(および天皇による認証式)への出席は、天皇制に対する共産党の態度決定にかかわる象徴的行動として、思想的に重大な意味をもっている。上に述べたように、共産党は2003年以来、現行憲法下の日本は君主制国家ではないとし、戦前のいわゆる「絶対主義的天皇制」からの断絶を強調している。ただし、裕仁・明仁両氏ともに天皇の戦争責任を認めていない状態で天皇制が存続し続けている事実は、戦前・戦後を通じての統治機構および支配層の基本的な連続性に制度上あるいはイデオロギー上の保証を与えてきたということができる。そのことは、現代日本国家において、(戦前に「国体」=天皇制を否定する思想を持つ者として殺害・処罰された)大逆事件や横浜事件の犠牲者が根本的に名誉回復されていない事実と、表裏一体をなしていることを忘れてはならない。

天皇制という共産党の歴史的存在の思想的根源に関わる問題をめぐって、選挙での勝利や「国民連合政府」構想の実現といった目前の目的のために、なし崩し的な妥協が行われているとは、あまり考えたくないことであるが。

かつてドイツ社会民主党(SPD)は、ドイツ皇帝が出席する帝国議会の開会式・閉会式において、皇帝を歓迎する行為をあくまで拒否した。それはドイツ帝国の徹底的な民主化を求める反体制的勢力としての、長年にわたる象徴的行動だった。ところが1911年の帝国議会閉会の際、SPD議員団は従来の党の慣例を破ってはじめて「皇帝万歳」を唱えた。翌年の選挙でSPDは帝国議会第一党へと躍進したが、翌1913年の帝国議会で対外膨張政策の基礎をなす国防法案に党史上はじめて賛成投票を行い、翌1914年には戦時公債法案に賛成投票して第一次大戦の熱狂的愛国主義に飲み込まれていくという、思想的転落の一途をたどったのである。

なお志位委員長によれば、国会開会式参加の方針を決定した12月21日の常任幹部会では、異論が出なかったという。かつて日本帝国(朝鮮・台湾・満洲など植民地を含む)において、自由と解放を求めて国体・天皇制と正面から闘い、志半ばに斃れた先人たちは、自らの犠牲をもって守り育てようとした「革命運動」の末裔のリーダーたちのこの決定を、草葉の陰からどのようにみているだろうか。冒頭に掲げた幸徳秋水の「自由党を祭る文」の一節が再びよみがえる。

クロポトキン『相互扶助論』と近代日本 [日本・近代史]

昨日、神保町の古本屋の店頭に、赤茶けたクロポトキンの『相互扶助論』(P. Kropotkin, Mutual Aid)の英語版(1919年刊)を見つけた。百円で購入。
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『相互扶助論』は、クロポトキンがイギリス亡命中の1902年にロンドンで初版が刊行。たちまち反響を呼んで版を重ね、世界各国の社会主義者・アナーキストに大きな影響を与えた。日本では、クロポトキンと文通していた幸徳秋水が本書の翻訳に着手したものの、病を得たため山川均に交代して翻訳が続行された。その間「屋上演説事件」(1908年1月)で検挙された山川は、巣鴨監獄の中で第1・2章の翻訳を完成させ、出獄後の1908年6月に『動物界の道徳』と題してシリーズ「平民科学」の第四編として有楽社から出版した。
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(国立国会図書館近代デジタルライブラリーより http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/832768/73

この「平民科学」シリーズの序文に編者の堺利彦は次のように書いている。「科学に平民科学と貴族科学若しくは富豪科学との別を立てる訳は無い。然〔しか〕し今の世では、学問は殆んど富豪貴族の独占となるべき勢ひである。…(中略)…既に斯〔か〕くの如くなれば、彼等の科学には必ず階級的偏見が混じて居る。科学の真髄は固より一様に平民と貴族と富豪とに通ずべき者であるが、只だ其の実際の応用に至つては、或は故意に、或は不知不識〔しらずしらず〕に、枉〔ま〕げて自己階級の利益を計る事になる。…(中略)…そこで平民には平民の科学が必要である。平民は如何なる場合にも自ら考へて独立の判断を為す必要がある。

こうした観点から編纂された「平民科学」シリーズには、山川によるクロポトキンの『相互扶助論』の抄訳のほか、エンゲルスの『家族・私有財産・国家の起源』(1884年)のうち国家論を除く部分が堺利彦の訳で『男女関係の進化』と題して、シリーズの第三編として刊行されている(1908年)。当時の官憲によって最も危険な思想として厳しく取り締まられていた無政府主義や社会主義の主要著作をいかにして合法的に世に送り出すか、当時の人びとの苦心のあとが偲ばれる。

だが、「平民科学」シリーズの出版直後の1908年6月、堺・山川・大杉栄・荒畑寒村ら十六名が検挙され、うち十二名に重禁錮一年から二年半の判決が下った(赤旗事件)。社会主義者・無政府主義者ら二十四名に死刑判決が下され、うち十二名が処刑された「大逆事件」の大弾圧が始まるのは、その二年後である。

大逆事件という弾圧の嵐を「縊り残され」て生き延びた大杉栄は1915年の秋、東京の丸善の店頭にクロポトキンの Mutual Aidが売られているのを見たという(「動物界の相互扶助」『新小説』1915年10月)。丸善に置かれていたのは同年の初めにロンドンで刊行された廉価な普及版であったが、昨日私が神保町で百円で買ったMutual Aidはその二刷(1919年)なので、丸善で大杉が手に取ったのとほぼ同じ体裁のものと思われる。

大杉はこれを全訳し、『相互扶助論』と題して1917年10月に春陽堂から刊行した。この訳書も日本の読書界に非常な反響を呼んだようで、大杉が関東大震災で憲兵隊に虐殺された翌年の1924年6月には31版を重ねている。
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(国立国会図書館近代デジタルライブラリーより http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/979698

1920年前後は、日本社会でアナーキズム思想が最も勢力を得た時期だ。同年、コミンテルンの密使からの要請で、上海で開かれた極東社会主義者大会に出席したのは大杉だったし、同年末に結成された日本社会主義同盟でも、アナーキストの勢力はマルクス主義者のそれと肩を並べていた(両者は未分化でもあった)。

そのころ、アナーキズムへの関心はアカデミズムにも広がっていた。東京帝国大学経済学部の紀要『経済学雑誌』の創刊号(1920年1月)には助教授森戸辰男の「クロポトキンの社会思想の研究」が掲載され、無政府共産の革命思想が紹介された。なお、森戸のこの論文は「国権の変更と国法の廃絶を企図」したと官憲によって断定され、森戸自身も新聞紙法の「朝憲紊乱」の罪で起訴されて、大審院で禁固3カ月の有罪判決が確定した(森戸事件)。大学における学問の自由を日本国家が蹂躙した一例として、忘れてはならない事件である。

おそらく1920年前後の無政府主義の華やかなりし頃、この列島社会の誰かが購入し、大震災・戦災さらには戦後の変転をもくぐりぬけ、何の因果か昨日たった百円で私の手に落ちたMutual Aid 。その赤茶けた頁をめくるたびに、古い紙の匂いとともにさまざまな感慨にとらわれる。

最後に、クロポトキンの『相互扶助論』の結論を大杉栄の訳文で引いておきたい(クロポトキン原著、大杉栄訳『相互扶助論』〔春陽堂、1917年(第31版、1924年)〕405~406頁)。

-----------------------------(引用はじめ)
相互扶助は、氏から氏族に、氏族の聯合に、民族に、そして遂に少なくとも理想の上にだけは全人類にまで拡張した。同時に又此の原則は精煉された。

原始仏教や、原始キリスト教や、或る回々教先達の文学や、宗教改革の初期の運動や、殊に又十八世紀及十九世紀に於ける合理的又は哲学的運動に於ては、復讐の観念や、『正当の報ひ』と云ふ観念、即ち善に報ゆるに善、悪に報ゆるに悪と云ふ観念を全く放棄する事が益々強く確かめられて来てゐる。『損害に対して復讐しない』と云ふ、又は隣人から受けようと思ふよりも多く与へると云ふ、より高尚な観念が、公平とか公正とか又は正義とか云ふ単純な観念よりももつと優れた、且つもつと幸福に導く原則、本当の道徳原則である、と主張されて来た。

そして人は、愛と云ふ常に個人的な若しくはたかだか氏族的なものによつてではなく、自分が一切の人類と一つのものであると云ふ意義に訴へて、其の意義によつて自分の行為を導かれるようになつて来た。

斯くして吾々は、人類進化の最初にまで遡る事の出来る相互扶助の実行の中に吾々の倫理観念の疑ふべからざる確実な起原を見出すのである。そして吾々は、人類の道徳的進歩に於ては、相互闘争よりも此の相互扶助の方が主役を勤めてゐると断言する事が出来るのである。そして又吾々は、此の相互扶助が今日猶広く拡がってゐると云ふ事に、吾々人類の更に高尚な進化の最善の保障を見出すのである。
-----------------------------(引用おわり。なお段落の区切りは引用者による)

天皇の「おことば」と立憲主義 [日本・近代史]

明仁氏の名で発表された新年所感が、FB上でちょっとした論議の的になっている。それにしても、今の日本社会のあり方に対して一見批判的なポーズを示す人が、天皇の「おことば」なるものに自分の意見を忖度して欣喜雀躍する姿は、毎度のことながらうんざりさせられる。こうした現象の問題点については、以前池澤夏樹氏について論じたことがあるので、ここには繰り返さない。

民衆を抑圧する日本政府と違って天皇は民衆の側に寄り添っているはずだという空想、天皇こそ世直しの旗手だといった妄想は、明治初年から現在まで日本社会に根強いやっかいな観念だ。こうした観念は、より良い方向へ社会を変革するために何の役にも立たなかったばかりか、日本社会の民主化を阻害し、日本帝国のアジア侵略を草の根で支えるイデオロギー的な役割さえ果たした。

1901年の暮れ、議会開院式に出席した帰途の睦仁(明治天皇)の騎馬車列に、田中正造が直訴を行い、足尾鉱毒被害民の救済を嘆願した。「草莽ノ微臣田中正造、誠恐誠惶頓首頓首謹テ奏ス」で始まる美文の直訴状を執筆したのは、新進気鋭の批判的ジャーナリストであった幸徳秋水。その内容は、「列聖ノ余烈ヲ紹ギ、徳四海ニ溢レ、威八紘ニ展ブ」る「陛下」に対して、鉱毒問題に無為無策の政府当局を非難・告発し、どうか自らの「赤子」を御救いくだされ、と天皇の「深仁深慈」にすがりつくものだった。

こうした田中の直訴が、許すべからざる不敬行為なのか、はたまた忠良なる臣の掬すべき衷心より出た義挙なのか、喧々たる論議を呼び起こした。こうした騒ぎは、一昨年に山本太郎参院議員の「直訴」をめぐっても繰り広げられたように、日本社会におなじみのものだ。

この騒ぎの渦中、幸徳は「至仁至慈の皇室を奉戴」する日本国民が「天皇陛下に直訴せんと欲するに至ること、まことに日本帝国臣民の至情」であると述べて、田中の直訴を自画自賛した(「臣民の請願権(田中正造の直訴に就て)」『万朝報』1901年12月12日)。そのころの幸徳は、「憲法は軽からざるに非ず、然れども勅語は更に重きなり」と、天皇の「おことば」を憲法より上に置くという天皇主義者だったのだ(「勅言下る」『万朝報』1901年3月15日)。

当時ありふれていたこのような天皇主義を、正面から厳しく批判した人がいた。木下尚江だ。木下は田中正造を深く敬愛していたが、直訴という行為だけは容赦しなかった。木下はいう、田中の直訴は「立憲政治の為めに一大非事」である。なぜなら、帝王に向て直訴するは、是れ一面に於て帝王の直接干渉を誘導する所以にして、是れ立憲国共通の原則に違犯し、又た最も危険の事態であるからだ、と(「社会悔悟の色」『六合雑誌』1902年1月)。政治権力、とりわけ天皇制権力が恣意的に行使される余地を許さないという、立憲主義の原則に立った決意が、彼の言葉にはっきりと表れている。そもそも木下は、天皇を神聖不可侵としつつ絶大な大権を与えた明治憲法体制では、真正な立憲政治を実現できないと考えていた。演説会での彼の舌鋒は、おのずとこうした「国体」問題にも及んだ。

幸徳と木下は社会主義の同志だったが、国体=天皇制問題をめぐり意見が一致しなかった。幸徳は、「二千五百年一系の皇統」に基づく「国体」と社会主義とは矛盾なく調和すると信じていたのだ(「社会主義と国体」『六合雑誌』1902年11月)。その幸徳は、しばしば「国体」に触れる発言をする木下を次のように叱りつけたという。「君、社会主義の主張は、経済組織の改革ぢやないか。国体にも政体にも関係は無い。君のやうな男があるために、「社会主義」が世間から誤解される。非常に迷惑だ」、と(木下尚江『神 人間 自由』中央公論社、1934年)。

このように社会主義者にまで浸潤していた天皇主義に対して、木下は憤怒の激語をもらした。「日本の識者が社会党に恐るゝ所はその純白の民主主義に在り。しかれども彼等が目して最も猛悪なる兇漢と指す社会党員すら、一たび諸君の前に立つ時は、「否な、我等は只だ経済的平等を希望するに過ぎず」と汲々弁疏するに非ずや。日本の識者と権力者とが社会党を目して君主政治の顚覆者とするに拘らず、社会党自身は却て之を以て己等を誣ふる者と憤激す。看よ、日本の何処に君主政治を否定する所の思想あり熱情ありや。」(「革命の無縁国」『新紀元』1906年9月10日)。

こうした木下の警告を受け入れたのかどうかは分からないが、田中正造も幸徳秋水もその天皇主義的な観念をまもなく払拭していった。田中は二度と上からの御慈悲にすがることなく、渡良瀬の農民とともに抵抗する道を選び、幸徳はアナーキズムの道を歩みはじめる。

だが一般には、百年前の木下の警告はまもなく忘れられ、その剛直な立憲主義に基づく天皇制批判の思想はついに日本社会に根付かなかった。立憲主義の原則すら無視して天皇にすがりつく「リベラル」は今も後を絶たない。
例えば内田樹氏は、「天皇陛下の政治的判断力への国民的な信頼」を説き、「今国民の多くは天皇の『国政についての個人的意見』を知りたがっており、できることならそれが実現されることを願っている。それは自己利益よりも『国民の安寧』を優先的に配慮している『公人』が他に見当たらないからである。私たちはその事実をもっと厳粛に受け止めるべきだろう」などと発言している(『AERA』2013年11月18日、雁屋哲氏のブログ「内田先生ご乱心、いや本心か」より重引)。日本国憲法の第三条「天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負ふ」、第四条「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない」に挑戦する、危険な非立憲的発想といわざるを得ない。

この内田氏の発言について、雁屋哲氏は上のブログで次のように批判している。「こうして、〔内田〕氏の文章を書き写すだけで、私は体の奥底から吐き気というか、脊髄の中に強酸を注入されたらかくもあらんかという、死んだ方が良いようないやな気持ちがこみ上げてきて、正気を失いそうになる。氏はこんなことを本気で書いているのだろうか。国政についての個人的意見を天皇に聞いて、どうするのか。・・・(中略)・・・突き詰めれば天皇の言葉通りに国政を進めようと言うことになる。このような言葉は、以前に聞いたことがある。2.26事件の青年将校たちが同じことを言っていた。内田氏の言うことは、青年将校たちが希望した「天皇親裁」と同じではないか」。けだし正当な批判だと私は思う。

韓国「統合進歩党」解散命令をめぐる雑感――「秘密保護法」施行の危険 [日本・近代史]

12月19日、韓国の統合進歩党が、国家権力によって強制的に解散させられたというニュース。韓国において「憲政史上初の政党解散審判の結果であり、国家権力が代議制民主政治の核心である政党を強制的になくした政治史的“事変”だ」という(「統合進歩党強制解散…韓国憲法裁判所“8対1”決定」『ハンギョレ新聞』日本語版12/19 )。

隣国でのこうした強権発動について、日本の人は対岸の火事視しがちかもしれない。だが実際は、日本の憲政史上、「秩序に有害」とみなされた政党が国家権力によって強制的に解散させられた例は数多くある。

集会・結社を規制する日本の法令は、国会開設を求めて自由民権運動が高揚していた1880年、これを弾圧するために制定された「集会条例」に遡る。この条例により、政談演説会や政治結社は事前に警察署に届け出て許可を受けねばならなくなった。さらに82年の改正によって、集会や結社に対して内務卿が「治安に妨害ありと認むるとき」はこれを禁止することができ、禁止命令に従わない者や秘密に結社する者は罰金もしくは軽禁錮に処されることになった(第十八条)。

その直後に改正集会条例の適用を受けたのが「東洋社会党」だ。82年に長崎県で結成されたこの政党は、「我党は平等を主義となす」「我党は社会公衆の最大福利を以て目的となす」などの綱領を掲げたが、まもなく「治安に妨害あり」と認められて結社禁止命令を受け、命令に従わなかったという口実で代表者の樽井藤吉が一年の軽禁錮に処された。

89年に天皇睦仁の名で発布された大日本帝国憲法は、「日本臣民」の権利として「言論・著作・印行・集会及結社の自由」を定めたが、しかし「法律の範囲内に於て」という但し書きが付された(第二十九条)。この結社の自由の「範囲」を定めた法律が、集会条例を受け継いだ「集会及政社法」(1890年7月制定)だ。集会・結社の事前認可制は届け出制に緩和されたが、内務大臣の結社禁止権は残された。

さらに、初期労働運動や足尾鉱毒被害民運動など社会運動が高揚した1900年、これらを取り締まる新しい法律として、集会及政社法を強化した「治安警察法」が制定された。その第八条で、「安寧秩序を保持する為必要なる場合」に内務大臣は結社を禁止できるとした。
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JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A03020436000(第1・5画像)、御署名原本・明治三十三年・法律第三十六号・治安警察法制定集会及政社法廃止(国立公文書館)

この条項が最初に適用されたのが、「社会民主党」だ。人類同胞、軍備の全廃、階級制度の全廃、政治的権利の平等、などを綱領に掲げて1901年5月に片山潜・木下尚江・幸徳秋水・安部磯雄らの結成した社会民主党は、結成から二日後「安寧秩序に妨害あり」とみなされて内務大臣により結社禁止命令が出された。それを受けて翌月、普通選挙と社会・労働政策という穏健な綱領で出発した「社会平民党」も即日禁止された。

日露戦後の1906年2月、「国法の範囲内に於て社会主義を主張す」ることを掲げて堺利彦らが結成した「日本社会党」は、日本ではじめて持続的に活動できた社会主義政党だが、結成から一年後の07年2月、「安寧秩序を保持する為」治安警察法第八条により結社禁止。さらに同年6月、「憲法の範囲内に於て社会主義を主張し労働者の当然享有すべき権利の拡張を計るを以て目的とす」るとした片山潜らの「日本社会平民党」も、わずか二日後に禁止された。

1910年の大逆事件によって長い「冬の時代」に入った日本の社会運動は、第一次大戦後にふたたび高揚し、20年12月、各種の社会主義者・アナーキストの大同団結組織として「日本社会主義同盟」が結成されたが、これも半年後に治安警察法第八条によって結社禁止された。

普通選挙法と同時に1925年制定された「治安維持法」は、「国体の変革」「私有財産制度の否認」を目的とする結社の組織・加入・支援について、厳罰をもって禁止した。この新法によって政治運動はさらに大きな制約をこうむったが、従来の治安警察法もあいかわらず威力を発揮しつづけている。1925年の12月に浅沼稲次郎を書記長として創設された「農民労働党」は治安警察法により即日禁止された。翌年結成された無産政党「労働農民党」は、28年2月に普通選挙制下の最初の総選挙で山本宣治らを当選させたが、4月に同法によって結社禁止に処せられている。

このように旧憲法下では、「結社の自由」が保障されていたにもかかわらず、政党がくりかえし結社禁止の憂き目にあわされてきた。それは、旧憲法の「結社の自由」なるものが「法律の範囲内」という留保のもとでのみ認められていたにすぎないからだ。

治安警察法や治安維持法など日本の憲政を形骸化させた悪法は、1945年8月の日本の敗戦後もなおしばらく生き続け、9月には治安維持法違反で投獄されていた三木清が獄死している。その後GHQの指令によって10月に治安維持法、11月に治安警察法がようやく廃止された。これらの法律の廃止が日本国民みずからの手によってではなく、占領軍の手でなされたことは記憶しておいてよい。

1947年施行の現行「日本国憲法」の第二十一条では、「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」とされ、人権を制約する法律の留保は排除された。その後52年に制定された「破壊活動防止法」(破防法)で、「暴力主義的破壊活動」を行った団体に対し公安審査委員会が解散の指定ができると定められた。が、破防法の団体活動規制処分の規定が適用された事例は今のところない(オウム真理教に対して適用が検討されたものの、結局見送られた)。現憲法による歯止めが効いているのだ。

だが、自民党が2012年に決定した「日本国憲法改正草案」では、憲法第二十一条に「前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない」という制約を付けている。もしこうした「改正」がなされれば、先にみたような旧憲法下の圧制が再現されうる危険がある。

すでに安倍政権下では、昨年末に特定秘密保護法が制定され、今月から施行されている。防衛省では従来の「防衛秘密」4万5千件が「特定秘密」に自動移行したとみられ、外務省も諜報・日米安保・朝鮮半島・東シナ海など35件を特定秘密に指定した。内閣官房は49件、公安調査庁は10件をそれぞれ指定した。内容は「外国政府との協力関係」「人的情報源を通じて収集・分析した情報」など。警察庁は「テロリズム関係」などの6項目で18件を指定した。他方、法施行と同時に設置されるはずだった国会のチェック機関「情報監視審査会」は、衆参両院とも設置されていない。(「「日米安保」「朝鮮半島」特定秘密指定始まる」『東京新聞』12/27)。

秘密保護法では、公務員や防衛産業の従事者が秘密を外部に漏らせば十年以下の懲役、それ以外の人が秘密を取得しても十年以下の懲役、秘密の漏洩や取得を共謀・教唆・扇動した場合は五年以下の懲役が科される。しかも、漏洩や取得が罰せられる「秘密」が具体的に何であるのか、明らかにされることもない。旧憲法下の治安警察法が、曖昧な「安寧秩序の保持」を名目に猛威を振るったことが想起される。「北朝鮮」を名目に強権が発動される韓国の今の事態は、日本社会にとって決して対岸の火事ではない。

治安維持法や治安警察法の廃止が、国民の手によってではなく、占領軍のいわば「恩賜」によってなされたことは、前述したとおり。秘密保護法が戦前の再来といわれてもピンとこない人が多いのも、戦後長年の間、「恩賜」の自由の上にあぐらをかいてきたことのつけかもしれない。

書評:鄭玹汀『天皇制国家と女性――日本キリスト教史における木下尚江』 [日本・近代史]

鄭玹汀著『天皇制国家と女性――日本キリスト教史における木下尚江』(教文館、2013年2月)に対する私の書評が、『初期社会主義研究』(25号、2014年5月)に掲載されました。下に転載します。

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 ここ数年来、日本社会のあちこちでナショナリズムの狂熱が噴出している。かつてインターネットの世界に閉じ込められていた民族差別な言辞が、突然現実の街路に飛び出し、日の丸や旭日旗を振り回す排外主義団体のデモの怒号となって東京の白昼の路上でもしばしば耳にするようになった。ここは本当に二十一世紀の日本なのか、と目を疑いたくなるような光景である。昨年(二〇一二年)末の安倍晋三政権の発足以来、排外的国家主義の圧力が公共の場の言論に対しても強まっているのは確かだ。領土問題でやや踏み込んだ発言を行った元首相に対しては、現職の閣僚から「国賊」という言葉が投げつけられた。あたかも時計の針が「戦前」へと逆戻りしたかのようである。

 日本社会全体に強まりつつある国家主義の圧力は、権力を批判する側の人びとの立ち位置すら微妙に変化させているようにみえる。例えば反原発・反TPPを掲げる運動や言論においても、普遍的な人権を根拠として立論するよりもむしろ、「国民国家」を守るためといったナショナルな立場からの主張が目立ってきている。「反日」「左翼」というレッテルを張られることを恐れる空気が強まるなかで、「保守」「愛国者」を自称する論客が若い世代に増えている。日本近代思想史研究の分野で近年、保守思想に関心が集まっていることも、そうした空気の反映なのかもしれない。

 日本社会の右傾化が目立つ中、二〇一三年二月に刊行された鄭玹汀氏の『天皇制国家と女性――日本キリスト教史における木下尚江』(教文館)は、反時代的であるがゆえにタイムリーな意義をもっている。本書の主人公である木下尚江は、私見によれば、近代日本においてナショナリズムと国体論に対する最もラディカルな批判を敢行した思想家の一人である。本書は、清水靖久氏の『野生の信徒 木下尚江』(九州大学出版会、二〇〇二年)以来約十年ぶりに現れた木下に関する本格的な研究書であり、木下の真骨頂である国家主義批判の思想と正面から取り組みつつ、彼を中心に明治キリスト教界のあり方全体を視野に収めた労作といえる。

 本書が研究対象とする時代は、一八八〇年代後半から一九一〇年頃に至る二十数年間である。大日本帝国憲法および教育勅語の発布から日清・日露の両戦争を経て大逆事件に至るこの時期、明治政府は天皇制イデオロギーによる急速な国民統合の実現を目指していた。そうした動きに、キリスト教界がどのように対峙ないし屈服していったかを考察することに、本書の主眼が置かれている。植村正久・海老名弾正・巌本善治ら明治キリスト教界を代表する指導者たちは、キリスト教への圧迫が強まるこの時期、天皇制イデオローグの呼号する国家主義や家族主義への妥協を重ねていった。他方で木下ら少数のキリスト者たちは、そうした教界主流の姿勢を厳しく批判したのである。従来注目されてこなかったこの両者の思想的対決を、鄭氏はスリリングな筆致でえぐりだしている。

 本書の議論で最も興味深く思われるのは、「武士道」思想をめぐる両者の対立である。植村正久ら明治期の代表的キリスト者の多くが武士道を称揚したのは周知のことだが、従来の研究はこれをキリスト教の土着化として積極的に捉えるものがほとんどであった。そうした先行研究に対し、鄭氏は異を唱える。植村らによる武士道の宣揚は、キリスト教を反国家的だとするナショナリスト勢力の攻撃から身をかわし、キリスト教が愛国や国粋保存と調和することを示すためという側面があった。日清・日露戦争にキリスト教界が積極的に加担する論理としても武士道は用いられた。木下の武士道批判はキリスト教界主流のこうした姿勢を指弾するもので、日露戦争を是認するか否かをめぐって両者の対立は頂点に達することが、本書で詳しく論じられている。世界に誇る日本の伝統的な倫理思想として武士道をもてはやす声が近年とみに高まっているが、そうした風潮の危うさに警鐘を鳴らすものとして、木下の武士道批判が掘り起こされたことの意義は小さくない。

 さらに、明治キリスト教界の女性論をめぐる本書の研究も、たいへん刺激的である。教界主流の女性論の保守化、内村鑑三ら男性中心主義的なキリスト者と日本基督教婦人矯風会との対立、矯風会内部の保守派と進歩派との対立など、時代の変遷とともに変化する複雑な構図が丁寧に解きほぐされている。そして女性の社会的役割をめぐるこうした教界内の論争が、天皇制イデオロギーの支柱の一つである家族主義の受容についての葛藤を反映していたこと、したがってそこには天皇制国家体制へのキリスト教界の統合という問題も蔵されていたことが、解明されている。鄭氏によれば、当時もっとも進歩的でラディカルな女性観をもっていたキリスト者の一人が木下であった。彼は廃娼運動を通じて矯風会の進歩派の女性クリスチャンと交流を深め、最も弱い立場に置かれた娼妓を主体とする人権運動の構想へと、女性解放の思想を深めていった。木下が婦人参政権をいち早く主張し、その獲得のための運動を矯風会の女性たちに呼びかけていた事実を、鄭氏が新資料の発掘によって明らかにしたことは、日本政治思想史研究のうえでも貴重な成果といえよう。

 木下尚江研究の重要なテーマの一つとして、一九〇六年秋以降の彼における思想上の変化をどのように捉えるか、という問題がある。従来の研究では、木下は母親の死などをきっかけに政治運動・社会運動から撤退し、キリスト教信仰にも動揺をきたして修養運動に参加するなど、急速に内面化してゆく、という理解が一般的といえよう。だが鄭氏はこうした見方にも疑問を呈している。すなわち木下の思想変化の基本線は、従来の都市知識人中心の運動を農村民衆中心の運動へと止揚することを目指す、という運動観の転回にあり、谷中村残留民との関わりの中にこの方向が示唆されているという。それと並行して、女性観においては都市の中・上流婦人からなる矯風会に対する木下の期待が失われた一方、農山村の最底辺の女性たちに変革への希望が託されるようになった。その間、彼の国家権力批判はますます熾烈となり、その背景として彼のキリスト教信仰における「神の国」観が深化したことが指摘されている。木下の思想変化の本質をめぐる本書のこうした叙述はまだスケッチにとどまっているが、従来の研究を刷新すべき重要な指摘が含まれていると思う。今後さらにこの問題をめぐる考察が深まることを期待したい。

 本書を通読して見えてくることは、廃娼運動・社会主義運動・反戦運動など、木下の参加したあらゆる運動における彼の主張の根底に、天皇制批判の思想が脈々と流れていることである。明治日本の思想家のなかで、天皇制・国体論批判の深度において木下の右に出る者はいないだろう。近代日本の社会・政治運動において、天皇制問題が現在に至るまでしばしば躓きの石となってきたことを振り返るとき、彼の天皇制批判は燦然と光を放っている。天皇元首化に向けた憲法改正を右派支配層が推し進めようとしている現在、権力を監視し批判する側の人びとの間ですら、天皇制を儀礼的な君主制の一形態として肯定、むしろ賛美する言説がじわじわと広がっている。近代日本のキリスト教界は天皇制イデオロギーといったん妥協して以後、帝国日本の侵略戦争に協力する方向へずるずると引き込まれていった。それは決してキリスト教界だけの問題ではないし、また過去の問題でもない。東アジアにさまざまな不幸をもたらした日本ナショナリズムにおいて、天皇制はいかなる役割を果たしてきたのか、また現に果たしつつあるのか。私たちはそのことをもう一度熟考する必要があるし、今日木下尚江を読み直す最大の意義もそこにある。そのために本書は最も適切な案内役となるだろう。
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「労働者の声」(『国民之友』95号、1890年9月23日)の筆者について [日本・近代史]

本ブログ5月1日の投稿で、日本で最初に労働組合の結成の必要を説いた文章の一つとして、明治時代の総合雑誌『国民之友』の95号(1890年9月23日)の社説欄に掲載された無署名の論説「労働者の声」について触れた。この論説について、最近二村一夫氏が、その筆者を高野房太郎とする説を唱えている(二村一夫『労働は神聖なり、結合は勢力なり―高野房太郎とその時代』〔岩波書店、2008年〕98~102頁。なお、ほぼ同じ趣旨の文章が、WEB版『二村一夫著作集』第6巻の「高野房太郎とその時代(38)」にある)。

だが私は、この二村氏の説は誤りで、「労働者の声」の筆者は竹越与三郎(三叉)である蓋然性が高いと考える。その根拠については、拙著『日本社会民主主義の形成―片山潜とその時代』(日本評論社、2013年)の「第4章 日本における「社会問題」論の形成」の注(73) で詳論したが、注の中で述べたこともあって人の目に触れることが少ないと思われるので、このブログの記事として以下に転載しておきたい(なお転載にあたり、文章を若干手直ししてある)。

二村氏は前掲書(およびWEB版の前掲論文)において、「労働者の声」の筆者は高野房太郎であると主張する根拠として、以下の諸点を挙げている。①労働組合と協同組合の結成が日本の労働者の地位を向上させる鍵であるという「労働者の声」の論旨が、高野の「日本に於ける労働問題」『読売新聞』1891年8月7~10日(高野房太郎著、大島清・二村一夫編訳『明治日本労働通信』〔岩波書店、1997年〕所収、277~288頁)と「完全に一致」している。②「労働者の声」が、その呼びかけを労働者に向かってではなく知識人に向けて訴えている点で、高野の姿勢と「完全に一致」している。③「吾人」「労役者」「友愛協会」「不幸に遭遇」という用語が共通している。④「労働者の声」の筆者は、労働組合や協同組合に対する深い知識と、日本の労働者の組織化に対する強い熱意とをもっていると考えられるが、同じ主張をその後も展開し続けた人物は高野のほかに見当たらない。

だがこれらの諸点は、いずれも論拠として不十分である。まず①について、「労働者の声」は、「同業組合」(労働組合)の機能として、疾病・火災など不慮の事態に備える共済的機能と、雇主の圧制に抵抗するためのストライキ機能とを挙げているが、他方高野の「日本に於ける労働問題」は、「労役者の結合」(労働組合)の機能として、主に「自尊自重の念」「謹厚篤実の風」「貯蓄の念」などを労働者に植え付ける教育的機能を重視する一方、労働者の「同盟罷工」や「ボイコット」は「資本家の有力なる結合」の前に効力を失っていることを指摘している。また高野において、組合の共済的機能は、組合の目的として二次的な「方便」とされ、「労働者の声」における位置づけとは異なる。このように、両者の論旨は決して一致しているとはいえない。

次に②について、労働組合の結成を労働者自身に任せておくべきではない理由として、高野の「日本に於ける労働問題」は、日本の労働者における倫理性の欠如を強調するのに対し、「労働者の声」は、日本の労働者が世論を喚起する手段を持たないことを指摘するにとどまり、労働者の倫理性についての言及はない。

さらに③について、「労働者の声」と高野の文章の間には、用語の一致よりも不一致のほうが目立つ。例えば「労働者の声」が用いる「同業組合」という語は、同時期の高野の諸論稿には現れず、「労役者の会合」「労役者の結合」という言葉を高野は用いている。またストライキについて、「労働者の声」では「罷工同盟」の語が多用されているのに対し、高野は一貫して「同盟罷工」の語を用いている。

最後に④について、労働者の組織化に対する『国民之友』の熱意の冷却は、徳富蘇峰や竹越与三郎らのその後の思想的転向を考えれば不思議ではないことから、この点も「労働者の声」を高野の執筆と断定する論拠にはなり得ない。

そもそも「労働者の声」は『国民之友』の社説欄に掲載された論説であるが、民友社と何ら関係のない無名の青年高野が『国民之友』の社説の原稿を執筆したという、およそ異例に思われることを主張するのに、二村氏の挙げる論拠はいずれも説得力を欠くといわざるを得ない。

なお二村氏は、「私が知る限り、これまでこの論文の筆者を探索した人はいません」と書いているが(二村、前掲書、98頁。同じ趣旨は「高野房太郎とその時代(38)」にもある)、実際は家永三郎氏がこの論文の筆者について晩年の徳富蘇峰に直接尋ねており、竹越三叉(与三郎)か山路愛山であろうという回答を得ている(家永三郎「「労働者の声」の筆者」『日本歴史』〔55号、1952年12月〕40~41頁)。またこの問答を踏まえて、竹越が筆者である可能性の高いことが研究者からすでに指摘されている(佐々木敏二「民友社の社会主義・社会問題論」(同志社大学人文科学研究所編『民友社の研究』〔雄山閣、1977年〕所収、154頁))。

事実、竹越はすでに1880年代末から社会問題に対して高い関心を示している(前掲拙著、第4章第3節を参照)。そして、民友社と無関係な無名の一青年にすぎない高野と異なり、民友社の幹部である竹越が『国民之友』の社説を執筆するのはごく自然なことである。

以上述べた結論として、「労働者の声」の筆者が高野房太郎である可能性はきわめて低く、竹越与三郎がその筆者である蓋然性が高いと言わねばならない。


【追記(2018年5月14日)】

ここでの私の批判に対し、二村氏はWEB版『二村一夫著作集』の「高野房太郎とその時代」の追補として、「再論・「労働者の声」の筆者は誰か?─大田英昭氏に答える(1)─」と題する文章を2018年4月に公開し、反論を試みている。

この二村氏の反論に対し、私も本ブログの2018年5月13日の記事「二村一夫氏の反論に答えるーー「労働者の声」(『国民之友』95号、1890年9月23日)の筆者をめぐって」において、再反論したので、ご参照願いたい。

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