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富岡製糸場の世界遺産登録をめぐって [日本・近代史]

世界遺産に登録される見通しとなった富岡製糸場ほか遺産群。「世界遺産登録推薦書」の概要や、「富岡製糸場と絹産業遺産群」公式ブックレットを見ると、これらの遺産群の「普遍的価値」は次のところに求められている。すなわち富岡製糸場は、高品質生糸を大量生産するために日本が近代西欧技術導入する中心的な場となり、国内の養蚕・製糸技術改良を促進するとともに、その高度な技術は海外にも移転され世界の絹産業発展に大きく貢献した、というものだ。

世界遺産登録推薦書について
http://worldheritage.pref.gunma.jp/pdf/suisensyogaiyou.pdf

世界遺産候補「富岡製糸場と絹産業遺産群」公式ブックレット
http://worldheritage.pref.gunma.jp/pdf/201404BL-ja.pdf

生糸を大量生産する近代的技術体系においては、多くの労働者を集中的に管理・訓練する労務管理技術がきわめて重要な位置を占める。だが富岡製糸場の「普遍的価値」を宣伝する側は、この点に触れることにあまり積極的ではないようだ。近代日本製糸業の労務管理と聞いて、多くの人の思い浮かべるのが『女工哀史』や『あゝ野麦峠』の悲劇だからだろう。富岡製糸場を宣伝する側があえてこの点に触れる場合は、創業期の官営富岡製糸場における工女がめぐまれた条件にあったことを強調し、『女工哀史』等々のマイナスイメージから切り離そうとする。

富岡製糸場を単体で(官営時代、特に創業期に限って)見ると、確かに西洋の産業技術および労務管理体系の導入のための模範工場として作られており、労働者も士族の娘が多く、産業革命期の奴隷的製糸工場とあり方が違うと言うのは間違っていない。そもそも富岡製糸場の創業期(1870年代)は農民層の分解も進まず、賃金労働者自体が未成熟であり、産業革命が始まる1880年代末以降とは時代状況が異なっている。

しかし、富岡製糸場の創業期だけを取り上げて明るく描き出そうとするのは、一面的ではなかろうか。富岡製糸場を近代の絹産業遺産としてその「普遍的価値」を云々するなら、当然、そこに始まる近代日本の絹産業(養蚕・製糸・織物業)全体を見渡す必要がある。横山源之助『日本之下層社会』(1899年)が描き出すように、それらに携わった農民・労働者の状態は、日本資本主義史の暗黒面を代表するといえよう。むしろそのどす黒さにこそ、産業資本主義の開始期(いわゆる本源的蓄積期)に共通する世界的な「普遍性」があり、世界の人びとが記憶すべき価値があるのではなかろうか。ところが推薦側も、ユネスコの側も、どちらもそうした視点に欠け、近代資本主義の形成をもっぱら明るいものとして描こうとしているように見える。根本的な歴史認識が問われるところだ。

近代初期(明治時代)の日本において生糸製糸業は、とくに綿糸紡績業が発展し始める19世紀末以前においては、外貨の獲得手段として最も重要な戦略的輸出産業であった。重工業が未発達な当時において、生糸の輸出によって得た外貨が、軍艦・兵器・鉄・機械類の輸入を可能にし、また重工業への投資を支えた。そして超低賃金・長時間労働による女工の奴隷的酷使が、輸出産業の世界市場における競争力を高めたことを忘れてはならない。

人身売買された女工の血と汗で作られた生糸や綿糸は、輸出財として外貨獲得の手段となり、軍艦や大砲に変換されてアジア侵略の手段となり、戦争で獲得した新市場に向けて増産するため女工の数を増やし搾取を強めてゆく…。これが近代日本資本主義の拡大再生産の基本図だ。女工の奴隷的搾取とアジアへの侵略戦争とは、その不可欠な一環をなしている。

私はまさにこの意味で、絹産業をはじめとする日本の「近代化産業遺産」は、確かに「世界遺産」として保存・記憶すべき普遍的な価値があると考える。帝国主義国家としての産業発展がいかなる条件の下で可能になったか、その暗黒ぶり(強制的奴隷労働、圧制に対する抵抗とその凶暴な弾圧)をそれらの遺跡がまざまざと示しているからだ。アメリカの産業発展が黒人奴隷やアジア人クーリー(苦力)労働者の膨大な犠牲によって成し遂げられたように、産業化の背後の野蛮な暴力(とそれに対する抵抗運動)には世界的な普遍性がある。そしてこの構造は現在も続いている。そのことを世界の人びとはしっかり記憶すべきだと思う。

日本政府は今、九州・山口の近代化産業遺産群(三池炭坑、長崎造船所、八幡製鉄所、その他)の世界遺産登録を目指している。だが上のような歴史的視点はほとんど見られない。例えばその「構成資産」の一つとして挙げられている高島炭鉱は、囚人の奴隷労働(1888年に雑誌『日本人』が告発したことで有名)や、1940年代の朝鮮人・中国人労働者の強制連行で悪名高いが、こうした重大な問題はほとんど無視されているようだ。近代産業資本主義の形成と発展を一面的に美化する歴史観を普及させようとする支配層の意図に対して、警戒が必要だ。

「明治日本の社会的キリスト教(1)(2)」『キリスト教文化』 [日本・近代史]

雑誌『キリスト教文化』(かんよう出版、2014年春号)が、中国にいる私の手元にも届きました。

今号の特集は「戦争とキリスト教」と題し、興味深い論考が数多くあります(池住義憲「「戦争準備」行為とキリスト者―どのようにプロテスト(抵抗)するか、できるのか」、山下明子「日本軍性奴隷制度の問題とキリスト教」、柴崎聰「戦争と戦後日本のキリスト教文学」、一色哲「闘いのなかのキリスト教 ─ 沖縄の戦後から」、金井創「沖縄―貴い隅の石」、梁在成「原発と戦争、そしてキリスト教信仰」、金興洙「一九五三年停戦協定、戦後の韓国教会」、尹善子「韓国の従軍聖職者活動の昨日、今日、そして明日」、河東基「良心的兵役拒否、僕の内側でこだまするイエスの声」)。

私も本誌で「明治日本の社会的キリスト教―地上における〈神の国〉を求めて」と題する論考を、前号に続いて連載しました。なお私自身はキリスト教の信仰をもっておりませんが、近現代の日本(および東アジア)においてキリスト教の思想と運動がきわめて重要な社会的役割を果たしてきたことを深く感じています。このたび執筆の機会を与えてくださったかんよう出版に感謝します。

かんよう出版HP
http://kanyoushuppan.com/

かんよう出版FBページ
https://www.facebook.com/kanyoushuppan

私は、上に紹介した本誌の特集「戦争とキリスト教」の各文章を読み、キリスト者の方々が今まさに大事な動きをしていることを知って感銘を受けました。そうした現在まで続くキリスト教思想と運動の社会的な役割を、十九世紀末から二十世紀初頭(いわゆる明治時代後期)に遡って考察することが、拙稿の目的といえます。その課題を述べた部分を以下に引用します。

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社会問題に取り組む諸団体や、「社会主義」「民主主義」「平和主義」という当時からすればきわめてラディカルな理念を掲げた政党が、多くのクリスチャンによって設立されたという事実は、明治日本のキリスト教界の特異な一面を物語っている。当時のキリスト教界では、いわゆる「社会的キリスト教」(social Christianity)が一定の影響力をもっていた。十九世紀後半のアメリカ合衆国において発展し、次いで日本でも受容されたその教説は、救済の地上性を強調し、社会問題の解決を教会の責務と考える点に、顕著な特徴があった。

明治期のキリスト教史において、社会的キリスト教が時代を画する重要な役割を担ったことは疑いえない事実である。ところが、それを主題とする研究はほとんど存在せず、キリスト教史の中に明確な位置づけを与えられていない。そこで、これまで不当に軽視されてきた明治期の社会的キリスト教について その思想と運動のあり方を明らかにすることを本稿の課題としたい。
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(大田英昭「明治日本の社会的キリスト教(1)」『キリスト教文化』2013年秋号)

明治時代の「社会的キリスト教」のあり方について、今号では特に片山潜(1859~1933年)に即して考察しました。片山潜は1884年二十五歳でアメリカに渡り、労働生活を送るなかでキリスト教に入信、聖職者を目指して神学校で学びます。当時のアメリカでは、産業社会の急激な発展に伴って激烈な労働争議や都市の貧困が深刻化していました。こうした社会問題にキリスト教会として立ち向かったのがアメリカの「社会的キリスト教」で、片山はその深い影響を受けて1896年、帰国しました。

片山は帰国後、東京でセツルメント運動を起こし、また日本最初の労働組合運動の指導者として活躍、さらに社会主義運動・民主主義運動へと進み、1901年に幸徳秋水・木下尚江・安部磯雄らとともに「社会民主党」を結成しました。こうした彼の行動を深いところで支えていたのが、キリスト教の信仰です。とくに労働運動において片山が、中国人をはじめとする外国人労働者との連帯を強く訴えた背景には、彼がアメリカでの労働と信仰の日々のなかで体得した人類同胞思想がありました。

その後「大逆事件」に代表される日本政府の凶暴な弾圧により、片山は1914年、アメリカに亡命することを余儀なくされます。さらに1921年、彼はロシア革命直後のソヴィエト・ロシアに渡り、やがてコミンテルンの幹部となって国際共産主義運動に参加し、モスクワで最期を迎えました。こうした晩年の経歴から、片山におけるキリスト教思想の意義は軽視されがちですが、しかしその思想は最後まで失われることなく彼の血肉になっていたと思います。今回の論考を、私は次のように結びました。

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(前略)
社会民主党の創設者として名を連ねた六名のうち五名がクリスチャンだったし、日露戦争に際して日本の社会主義者が反戦平和を訴え続けた背景としても、社会的キリスト教の思想的影響は無視できない。1904年8月にアムステルダムで開催された第二インターナショナル大会で、片山とG・プレハーノフ(Georgi Plekhanov, 1856‐1918年)とが、戦争に反対する日露両国の民衆を代表して壇上で握手した際に、片山の念頭にあったのは、社会主義のインターナショナリズムと同時に、キリスト教の人類同胞主義だったのではあるまいか。

さらに七年を経た1911年秋、片山はイエスの「天国の福音」について次のように述べている。

「〔耶蘇の〕山上の垂訓は、実に彼の社会問題の解決法、彼の建設せんとする理想の天国、即ち神州の憲法である。彼が運動を始むるや、非常なる熱心、勇気、期望をもって居たのである。その成功に対する信仰は偉大なる者であつた。「天国は近けり、悔い改めよ」とは、彼の民衆に対する警句であった。彼は地上に天国を建設することが出来ると確信せる者の如くである。その識見、威厳は壮烈なる者であった。…(中略)…耶蘇は無垢の青年で社会に出た。刻苦艱難奮闘の結果、正義の人となったのである。理想の大人格となったのである。我が唯一の師表、ユニークの救世主となったのである。…(中略)…耶蘇が今日人類社会に勢力があるのは、その我々に残したる経験である。その経験、その誠実偉大なる信仰に依って、我々をして神に達するの道を教えたのにある。実に彼自ら神の子たる本分を尽し、我々にも神の子たり、其本分を全うする道を教えて呉れたのである。これ予の信ずる耶蘇である。実に救主と尊敬する基督である。」(「耶蘇は如何にして誘惑に勝ちたる乎」『東洋時論』1911年11月)

(中略)

制度としてのキリスト教会から片山が次第に遠ざかりつつあったのは事実であろう。しかしそれは、信仰が冷却したというよりも、むしろ、上の引用の如き意味で「大人格」「救世主」とされるイエスの福音に向けて、彼の信仰がいっそう純化したことを意味するのではなかろうか。片山の信仰の行方、ないし彼の「棄教」をめぐる問題は、キリスト教の本質とは何か、という困難な問いを含んでいる。この問題にここで答えを出すだけの準備が私にはない。しかし、ただ一つ言えることは、共産主義インターナショナル(コミンテルン)の運動に加わった片山が一九二一年ソヴィエト・ロシアに渡った後も、彼が若き日にアメリカで得た人類同胞主義は、最期の日まで微動だにしなかったに違いない、ということである。
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(大田英昭「明治日本の社会的キリスト教(2)」『キリスト教文化』2014年春号)

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「昭和の日」雑感 [日本・近代史]

海外に住んでいるので忘れていたが、昨日は「昭和の日」という休日であったことに気付いた。裕仁の誕生日だ。89年に本人が死去した後「みどりの日」と改称、さらに2005年小泉内閣のときに祝日法が改正され、2007年から施行されて現在の名称となった。なぜこの日を今わざわざ祝わねばならないのか、根拠は全く不明だ。

裕仁の祖父である睦仁(明治天皇)の誕生日(11月3日)は、死後から15年を経て「明治節」として1927年に復活し、「臣民ト共ニ永ク天皇ノ遺徳ヲ仰キ明治ノ昭代ヲ追憶」することがうたわれた(「明治節制定ノ詔書」)。戦後は1946年のこの日に新憲法が公布され、名義上それを祝う「文化の日」として48年の祝日法で定められ、今日に至っている。かつて大日本帝国憲法(旧憲法)が紀元節(2月11日。実在しない神武天皇の即位日としてでっちあげられた。現・建国記念の日)に発布されたのと同じように、天皇主義者の吉田茂が新憲法の公布日をわざと明治節に合わせたのかもしれない。

他方、裕仁の父・嘉仁(大正天皇)の誕生日(8月31日)は、祝日として残されることがなかった。なぜ、ひとり裕仁の誕生日だけが、新憲法公布を記念する「文化の日」のような名目すらないのに、露骨にも「昭和の日」の名で祝日として残されているのか?改正祝日法ではその趣旨について、「激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす」と説明されている。が、祝日法改正による改名を推進した神社本庁のHPにあるように、「昭和天皇の御事蹟を顧みる」ことを国民に強要することが、支配層の本音だろう。1927年に明治節が制定されたとき、「臣民ト共ニ永ク天皇ノ遺徳ヲ仰キ明治ノ昭代ヲ追憶」することがうたわれたのと、何と似通っていることか。
http://www.jinjahoncho.or.jp/column/000020.html (神社本庁・コラム「昭和の日」)

だがそもそも、裕仁の「御事蹟」とは何か?「昭和の時代」なるものを「顧みる」のであれば、彼が大日本帝国憲法の下で、大元帥として陸海軍を統帥する大権を唯ひとり有していた二十年間に、次々と実施された日本の侵略戦争によって国内外の膨大な人びとが犠牲にされたこと対する彼の責任をこそ、なによりもまず「顧みる」必要がある。それをせずに彼の「御事績」を寿ぐことがいかに欺瞞に満ちているかは、言うまでもない。

「昭和の日」および現行の天皇誕生日のほかにも、現代日本の祝日には天皇制に由来するものが少なくない。建国記念の日(2月11日、戦前の祝日「紀元節」)、春分の日(3月21日頃、戦前の祭日「春季皇霊祭」)、秋分の日(9月23日頃、戦前の祭日「秋季皇霊祭」)、文化の日(11月3日、戦前の祝日「明治節」)、勤労感謝の日(11月23日、戦前の祭日「新嘗祭」)。なお戦前の祝祭日ではないが、1996年から施行された海の日(7月20日、2003年から7月第3月曜日)の起源は、1876年に睦仁(明治天皇)が汽船「明治丸」で北海道・東北地方を巡り7月20日に横浜に帰着したことを記念して、1941年(!)に「海の記念日」とされたことにある。

つまり、現行の15の祝日のうち8つまでが、天皇制とつながりをもっていることになる。人間の生活と労働のあり方を決定する暦において、日本人はいまだに天皇制の時間枠組みに(おそらくほとんどの人は無自覚に)支配され続けている。そしてそれは、戦後日本の支配層が自覚的に行っていることで、21世紀に入りいっそう強化されているのだ。

なお少し前から、成人の日や敬老の日、体育の日などいくつかの祝日は、労働者の連休を増やすため月曜日に移動されている(ハッピーマンデー制度)。しかし、天皇の誕生日に由来する祝日(昭和の日・文化の日・天皇誕生日)と、戦前の祝祭日に由来し天皇制ときわめて深いつながりをもつ4つの祝日(建国記念の日・春分の日・秋分の日・勤労感謝の日)については、決して動かされることがない。とりわけ春季皇霊祭(春分)・秋季皇霊祭(秋分)・新嘗祭(勤労感謝の日)の三つは、皇居宮中三殿で天皇による祭祀が行われる「大祭日」で、首相・衆参両院議長・最高裁長官の「三権の長」もこれにしばしば出席してきた。

支配層がこれらの日付を決して動かそうとしないのは、天皇制と宮中祭祀にまつわるそうした理由がある。「天皇が下々の安泰のために皇祖皇宗(歴代天皇ら自分の祖先神)や天神地祇を祀るありがたい日」というわけだ。天皇制とその「万世一系」神話および祭祀は、日本の支配層が今も国民の統合と支配の正統性根拠として利用し続けている。憲法で定められているはずの政教分離原則が、この国で果たしてどこまで貫徹しているのか、実に疑わしい。

明治神宮の「祭神」をめぐる雑感――皇族の呼称・追号 [日本・近代史]

4月24日、オバマ大統領が明治神宮を参拝した。この参拝自体、東アジアの国際関係や日本の政教分離原則をめぐりいろいろな問題をはらんでいると思うが、今は措く。

明治神宮の祭神は、「明治天皇」と「昭憲皇太后」である。それぞれ、睦仁氏とその正妻の美子氏(睦仁氏にはほかに側室が数名あり)の死後におくられた追号だ。しかし、なぜ後者の追号が「皇太后」なのか?(「大正天皇」嘉仁氏の妻節子氏の追号は「貞明皇后」、「昭和天皇」裕仁氏の妻良子氏の追号は「香淳皇后」)

祭神名として「昭憲皇太后」を採用している明治神宮のHPによれば、1914年に美子氏が死去した際に、当時の宮内大臣が彼女の追号を誤って「皇太后」として上奏し、それがそのまま天皇に裁可されてしまった、とのこと。
http://www.meijijingu.or.jp/qa/gosai/12.html

「皇族身位令」(1910年)によれば、「皇太后」よりも「皇后」の方が、位が上だ。そこで明治神宮奉賛会は、「昭憲皇太后」を「昭憲皇后」と改めるよう宮内大臣宛てに建議したものの、すでに天皇の裁可のあったものは変えられないとの理由から、追号・祭神名の変更は許されなかった。さらに戦後の1963年と67年に、明治神宮崇敬会は再度宮内庁に「皇太后」から「皇后」への追号変更の懇願を出したものの、却下されたという経緯を、明治神宮自身がHP上で説明している。

そもそも元号名を天皇の追号とするようになったのは、「一世一元」制が採用された明治以降のこと。「天皇」号自体は7世紀末ごろに成立したとみる説が有力で(その前は「大王(おおきみ)」号)、漢風諡号(持統天皇、文武天皇、桓武天皇など)が死後に贈られるようになった。平安朝になると諡号は廃れてゆき、皇居や譲位後の居所、陵地などの地名(嵯峨、醍醐など)が「追号」として用いられ、10世紀半ばからは「天皇」号自体が廃れて、死去した(元)ミカドには「院号」が追号された(冷泉院、一条院、後白河院など)。

長らく途絶えていた「天皇」号が復活するのは、江戸時代後期の1840年に死去した元ミカドに「光格天皇」という漢風諡号が贈られてからのことだ。「明治天皇」以降は諡号ではなく、一世一元の制に基づき元号がそのまま死後に追号されている。なお、約900年間「~院」と追号されていた歴代のミカドたちの歴史的呼称が「~天皇」に全て改められるのは、1925年に政府がそのように決定してからのことにすぎない(藤田覚『幕末の天皇』講談社、1994年)。

歴史上のミカドやその一族の呼称については、上に挙げたような諡号・追号としての「天皇」号・「皇后」号がはらむいろいろな問題がある。現在の皇族の呼称も複雑だ。皇族に姓がないのは周知のことだが、東アジアでは古くから当人の本名(諱〔いみな〕)を主君や親以外の人が呼ぶのはタブーとされてきた慣習がある。この古い慣習が現在も皇室についてのみ、適用されがちなようだ。

「天皇」とか、「皇后」「皇太后」「皇太子」「親王」等々の称号は、法律である皇室典範に定められている。一方、「秋篠宮」などの宮号は、法律上に根拠のない慣習上の(皇室の私的な)名称といえる。皇太子徳仁親王、秋篠宮文仁親王の「浩宮」「礼宮」、皇太子の娘の愛子内親王の「敬宮」等々は、天皇・皇太子の子女のみがもつ称号だ。特に男性皇族については、本名(諱)をなるべく避ける古い慣習に縛られているためか、皇族の人びとの呼称は実にわかりにくいものとなっている。

一方、皇族を指す呼称として、マスメディアが本名(諱〔いみな〕)を用いる例が増えてきた。「雅子さま」「愛子さま」といったものがそれで、本名を呼ぶ場合は「さま」という妙な敬称を付すのが「決まり」になっているようだ。他方、男性皇族については、とりわけ天皇や皇太子の地位にある人たちの呼称として、本名を用いることは注意深く避けられる傾向がある。親や主君以外の者が諱(本名)を呼ぶのは無礼だ、という因習に今も囚われているからではないかと思われる。

こんな因習にマスコミが一律に囚われているのは奇妙なことだ。こうした特別扱いが、皇族に対する人びとの特殊な感情を生み出し、天皇制や皇室制度の存廃についての開かれた議論をタブーとする空気を醸し出していることは、確かだと思う。権力を批判し民主主義を擁護する公器としての報道機関が、こと皇室に関しては、逆に民主的な議論を抑え込む役割を果たしている。現代社会において、明仁氏や徳仁氏の本名を呼ぶのは敬を失する、という感覚自体が異常ではないのか。

歴史上の人名についても、特に近代史にかんして言うと、天皇の地位にあった睦仁・嘉仁・裕仁らの本名をことさらに避けて、「明治天皇」「大正天皇」「昭和天皇」という、彼らの死後に贈られた追号で呼ぶ慣習が残っている(私も自著で「明治天皇」と記した)。だが例えば睦仁の名を避けて明治天皇と呼ぶと、なんとなく神聖不可侵な感じを与え、彼が政治家として実際どのような役割を果たしていたのか客観的に認識することを妨げかねないような気がする。自戒を込めてここに記す。

「大逆」事件と「爆弾計画」事件――天皇制をめぐる雑感 [日本・近代史]

103年目を迎えた、国家による「合法的」な大量殺人である「大逆」事件。昨日の投稿で述べたように、その発端となったのは、1910年5月に機械工の宮下太吉が「爆発物取締罰則」違反の容疑で検挙されたことにありました。民衆を覚醒させる手段として明治天皇殺害を決意した宮下は、その前年から管野スガ・新村忠雄・古河力作との四名で計画を進行させ、爆弾の試作実験を行っていました。
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【左が宮下太吉(1875-1911)、右が菅野スガ(1881-1911)】

宮下ら四人による「爆弾計画」事件について、これも官憲による「でっち上げ」「架空の事件」ではないのか、という意見を、ネット上で目にしました。しかし、現在までに判明している「大逆」事件関連の史料・研究を読む限り、宮下太吉らの「爆弾計画」事件については官憲のでっちあげの可能性は低いというのが、私の判断です。それはまた、これまで多くの歴史家たちが、「大逆」事件の真実を明らかにすべく渾身の力で史料を発掘し、議論を積み上げた結果得られた定説でもあります(興味のある方は、入手の容易な本として、最近復刊された神崎清『革命伝説』全四巻(子どもの未来社、2010年)をご覧ください)。

多くの歴史家とともに私も、宮下・管野たちが天皇暗殺に賭けた情熱と行動は本物で、爆弾試作は史実であったと考えます。それすらも「架空」だ、「でっち上げ」だと否定することは、彼ら四名の信念や志を無にすることになり、それでは彼らも決して浮かばれないと思います。史料に即して史実を可能な限り明らかにし、それを自分勝手な立場から捻じ曲げないことが、「大逆」事件犠牲者たちに対する私たちの責任だと信じます。

「大逆」事件の本質は、四人の「爆弾計画」事件を、社会主義者の全国的陰謀として官憲が恣意的に書き換え、「大逆」罪を発動することによって社会主義者を「合法的」に殺戮し絶滅することを企んだことにあります。

戦前の刑法第73条に規定されていた皇室危害罪=大逆罪は、天皇などに対して実際に危害を加える行為だけでなく、危害を加えようとする一切の企て、すなわち予備・陰謀・幇助などをも刑罰の対象とし、その全てについて死刑に処す、という恐るべきものでした。宮下ら四人の「爆弾計画」は、この大逆罪に触れる相当の覚悟と信念によって行われたと思われます。他方、死刑判決を受けたその他20名の「罪状」は、当時の刑法からいっても全くのでたらめ・捏造で(四人の「爆弾計画」を事前に知っていた幸徳秋水については議論がありますが)、彼らの無念は察するに余りあります。

上のような意味で、「大逆」事件は官憲によるフレームアップ=「でっち上げ」でした。しかし、宮下・管野たち四名の明治天皇暗殺計画と、そのための爆弾試作までがでっち上げだったわけではありません。被告たちの「潔白さ」を信じるあまり、四人の明治天皇暗殺計画を否定したり、その意味を軽視したりすることは、かえって歴史の真実を覆い隠すことになります。そうした「善意」による史実の歪曲は、「日本人が天皇の暗殺を企てるはずはない」といった「神話」につながり、天皇制を自明視する精神構造を強化する恐れすらあるでしょう。それは、天皇制国家に殺された四人の志そのものを否定することにほかなりません。

史料に即して史実を追求し、勝手に捻じ曲げないこと。それは、先人たちの歴史から私たちが教訓を得るために、絶対に不可欠な条件です。

「大逆」事件という兇悪な国家殺人――1911年1月24・25日 [日本・近代史]

103年前の昨日(1月24日)、「大逆」事件の被告としてでっち上げられた幸徳秋水ら11名が、日本の国家権力によって惨殺されました(翌日には管野スガも殺害)。

この非道な国家犯罪の発端は1910年5月25日、長野県明科の機械工の宮下太吉が「爆発物取締罰則」違反の容疑で検挙されたことにありました。宮下宅からは多数のブリキ缶や火薬原料などが発見され、それらが明治天皇の暗殺を目的とする爆弾の材料として準備されたことが、宮下の自供によって明らかにされました。

宮下は民衆を覚醒させる手段として明治天皇殺害を思い立ち、菅野スガら三名と相談しながら、爆弾実験などを行っていました。しかしこの計画が具体化しないうちに、警察は宮下の爆弾製造を察知してこれを捕縛、きびしい取調べの末に天皇暗殺計画についての自白を得たため、爆弾事件は皇室危害罪(大逆罪)の適用される「大逆事件」へと展開してゆきます。

大逆罪を規定する刑法第73条は、天皇などに対して実際に危害を加える行為だけでなく、危害を加えようとする一切の企て、すなわち予備・陰謀・幇助などをも刑罰の対象とし、その全てについて死刑に処す、という恐るべきものでした。

20世紀はじめの日本において、天皇制国家の帝国主義戦争に正面から反対し、自由と人権の擁護を最も強く主張したのは、社会主義者たちでした。彼らは、日本政府が帝国主義政策を遂行してゆくうえで、最大の障害でした。そこで政府は、宮下らの爆弾事件を利用し、この機会をとらえて「大逆」罪を発動することによって、社会主義者たちを「合法的」に殺戮し絶滅することを企んだのです。

検察当局は、天皇暗殺計画の首謀者は著名な社会主義者の幸徳秋水であると決めつけ、6月1日に逮捕しました。さらに検察は、宮下ら四名による爆弾事件の本来の構図を恣意的に書き換えて、幸徳を中心とする社会主義者、とりわけ「無政府主義者」による全国的な「大逆」陰謀事件という筋書きを捏造しました。この架空の構図に沿って、本来の爆弾事件とは何の関係もない社会主義者が、全国各地で次々に検挙されたのです。最終的に「大逆事件」の共犯者として起訴された者は二十六名に及びました。

このでっちあげ事件の裁判は異例のスピードで展開され、1911年1月18日、大審院は幸徳秋水ら24名に死刑判決を下しました(翌日、うち12人が明治天皇の「仁慈」(?)によって無期懲役に減刑)。そして判決から一週間もたたない24日、市ヶ谷の東京監獄で幸徳ら11名の、25日に管野スガの死刑が執行されてしまったのです。

それから103年目の1月24日、国家権力によって12名が惨殺された現場である東京監獄の跡地を私は訪ねました。その一部は現在、新宿区の富久町児童公園となっています。かつて刑場があったとされる場所には1964年、日本弁護士連合会によって「刑死者慰霊塔」が建てられました。

監獄跡地の公園では、おしゃべりに夢中な母親たちのそばを小さな子どもたちが走り回り、かたわらのベンチではお年寄りが日向ぼっこしています。穏やかな冬の日、その片隅にひっそりと建つ慰霊塔には、心ある人によって新しい花が供えられていました。平和な世界の実現のために身命を賭しながら、それがあだとなり天皇制国家権力によって「大逆」の血祭にあげられた12名の犠牲者たち。103年前に行われたこの兇悪な国家殺人に対して怒りを新たにしつつ、彼らの志をいかに受け継ぐべきか、思いをめぐらした一日でした。

【写真は、東京監獄の刑場跡地に建つ「刑死者慰霊塔」(1月24日)】
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NHKドラマ『足尾から来た女』についての疑問 [日本・近代史]

NHKドラマ『足尾から来た女』。時代背景が私の狭い専門分野と重なっていることもあり、中国でもずっと楽しみにしてきました。幸い今回、日本への一時帰国を利用して再放送を観ることができました。

日清・日露戦争に勝利し、一躍新興帝国主義国家としてのしあがった明治日本。当時の日本にとって、銅は富国強兵に必要な外貨を得るために不可欠な輸出品でした。そうした国策による足尾銅山の急速な開発によって引き起こされたのが、足尾鉱毒問題です。

1890年代末から数度にわたって行われた足尾鉱毒被害農民ら数千人の上京示威運動や、田中正造の「直訴」などを経て、足尾鉱毒被害を救済すべきだとする世論が急速に高まりました。こうした世論の圧力によって、政府もようやく鉱毒対策に重い腰を上げはじめます。しかし、富国強兵に必要な足尾銅山の操業を停止するという選択は、日本政府にはありません。そこで窮余の策として現れたのが、鉱毒被災地の一つ谷中村をつぶして、ここに巨大な遊水地を造り、流域の鉱毒を緩和する、という案でした。

こうして谷中村は、国策の前に犠牲の羊として生贄にされてゆきます。この不正不義に憤った田中正造は、強制立ち退きを拒む谷中村民とともに、巨大な国家権力に敢然と立ち向かう道を選びました。このような時代背景のもと、田中正造を中心とするさまざまな人間模様を描き出そうとしたのが、ドラマ『足尾から来た女』です。

ドラマの主題である谷中村問題は、国策・国益の名の下に、一部地域の住民の人権を奪い深刻な犠牲を強いるという点で、現在の原発問題や普天間移設問題とも通じています。その意味では、今の時期にこうした重大なテーマを扱ったドラマを制作した方々に、敬意を表したいと思います。

しかし、明治時代の社会運動を研究してきた私にとって、このドラマは疑問を感じざるを得ない点がいくつかありました。

その一つは、『足尾から来た女』という題名です。ドラマの主人公の女性は、足尾銅山からではなく、鉱毒の被害を受けた谷中村から来たのです。足尾銅山は渡良瀬川の上流にあり、谷中村はそのはるか下流に位置し、両者は地理的に大きく隔たっています。にもかかわらず、なぜこのような題名にしたのでしょう?

このドラマのさらに大きな疑問点は、当時の社会主義者、とりわけ石川三四郎の描き方です。ドラマで石川は、谷中村から来た貧しい娘にセクハラを働くような、傲岸で裏表のある浮ついた人物として描かれています。しかしそれは完全に史実に反するものです。私の知る限り、当時の石川三四郎は非常に繊細で内向的な青年で、ドラマが描く人物像とはむしろ正反対の人格なのです。

確かに石川は「自由恋愛」論を唱えましたが、それは当時の前近代的で抑圧的な家族制度・結婚制度を批判し、真実の愛に基づく男女の精神的な結合を強調するものでした。ドラマでは、石川の「自由恋愛」論はフリーセックス論のようにみなされていますが、そうした曲解は、当時の御用論客が社会主義者を反倫理的な怪物に仕立てるためになされたものです。ドラマの描く石川の人間像は、御用論客によって醜く描かれた当時の社会主義者像と相似的だと思いました。

そもそも石川は徹底した非暴力論者で、階級闘争にすら否定的でした。その石川が、あたかも暴力革命論者のようにドラマでは描かれているのも、おかしなことです。

このドラマでは、幸徳秋水・堺利彦ら社会主義者を、観念的に革命ばかり唱えている頭でっかちな人間としてことさらに描き、そのカリカチュアとして石川の人間像を造ったように見えます。それと対比する形で、「地に足の着いた」田中正造の実践の「偉大さ」を際立たせようとしているのではないでしょうか。しかし、当時の社会運動を研究してきた私としては、こうした対比の仕方は全く納得できません。

1907年2月の足尾銅山争議・暴動事件と社会主義者との関係についても、ドラマの描き方には首を傾げざるを得ません。その頃足尾銅山には、坑夫の自発的な労働組合(大日本労働至誠会)が組織され、組合の主導する待遇改善運動が始まっていました。が、その矢先、組合を嫌う飯場頭によって暴動が扇動され、その結果組合もその地道な努力も破壊されてしまったのです。しかし警察はこれを利用し、この暴動は社会主義者が扇動したものだというデマを流しました。こうした史実について、ドラマの描写は実に不正確で、むしろ当時の警察見解に近いものだという印象を受けました。

また、社会主義者を一律に「国家転覆」陰謀者として弾圧した当時の警察見解についても、ドラマはそのまま追認しているように見受けられました。こうした見解は「大逆」事件のでっちあげへと連なるもので、当時の多くの社会主義者たちの実際の思想や行動からはかけ離れたものです。

総じて、このドラマでは当時の社会主義者が戯画化、さらに言えば悪魔化されているように、私には感じられました。彼らについて親しく研究してきた者として、こうした描き方はとうてい納得できるものではありません。意義深いテーマを扱っているドラマであるからこそ、いっそう残念に思います。

20世紀初頭の日本において、帝国主義戦争に正面から反対した唯一の人びとは、彼ら初期社会主義者です。当時において、最も強く自由と人権の擁護を主張し、最もラディカルな民主主義を主張したのも彼らです。田中正造が偉大なのは確かであるとしても、それを強調するためになぜ初期社会主義者たちをことさらに貶める必要があるのでしょうか?私には理解できません。


【後記 1月26日】
前編の放送で、貧しい農民の娘にセクハラを働く卑劣な男として描かれた石川三四郎。後編の放送(1月25日)ではなんと強姦魔(未遂)として現れました。明治時代の初期社会主義者たちが遺した史料を読み込んできた私にとって、石川は親しい友人も同然です。その彼がこのような侮辱的な描かれ方をされたことに対し、私は怒髪天を衝く思いをし、今も怒りと悲しみが収まりません。

それだけなら私憤かもしれません。しかしこのドラマでは、初期社会主義者たちが戯画化され、その延長線上に非人間的な怪物・犯罪者として石川三四郎が造型されています。当時の日本において、彼ら社会主義者たちは、帝国主義戦争に正面から反対し、最も強く自由と人権そして民主主義を主張しました。フィクションとはいえ、ドラマが彼らをかくも貶めて描いたことは、単に史実を歪めるということを越えて、日本の近現代史に対するさまざまな偏見を視聴者にもたらすことでしょう。その意味でも、私はこのドラマにおける描写を看過できず、この歪曲を決して許すことができません。

【後記2 1月26日】
後編でもう一つ疑問に思ったのは、娼妓の描き方です。近代日本において娼妓は、人間としての自由も権利も尊厳も全て奪われ尽くされた性奴隷として、弱者中の最弱者と呼ぶべき人びとです。その意味で彼女たちは本来、谷中村の人びとと相似的な存在であるはず。ところがこのドラマは、娼妓を醜悪な人格破綻者として描き、彼女たちの境遇に対する同情や共感のかけらさえ見られません。谷中村問題をテーマとするドラマがこの程度の人権意識しかないことに、驚かされました。
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