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「満洲国」の爪痕(8)南嶺大営――満洲事変と長春 [満洲国]

日本の関東軍が満洲(中国東北部)に全面的な軍事侵略を開始した柳条湖事件からちょうど84年目の9月18日、満洲事変における最大の激戦地の一つ、長春の南嶺大営(南大営)旧址を訪れた。ここには満洲事変まで、国民革命軍東北辺防軍(張学良麾下)の砲兵第10団(1370人)と歩兵第25旅5団(2350人)が駐屯し、満洲における中国軍(国民党)の重要拠点だった。
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(南嶺大営の東北軍砲兵第10団部正門)

満洲事変の勃発前から、長春には「満鉄附属地」と呼ばれる、日本帝国の事実上の植民地域があった。その由来は1905年、日露戦争に勝利した日本が、ロシアから関東州(旅順・大連など遼東半島南端部)の租借権や、大連―長春間の鉄道とそれに付属する利権を譲渡されたことにある。翌年、植民経営の機関として南満州鉄道株式会社が設立され、鉄道の沿線用地および停車場のある市街地は「満鉄附属地」に編入され、日本帝国の重要な権益としてその行政権下に置かれた。満鉄附属地内では、日本領事が司法・外交権、関東都督府(関東州における日本の植民統治機関で、民政部と陸軍部から成る)が軍事・警察権、満鉄が行政権を握り、中国側の権力は一切及ばなかった。1919年、関東都督府の改組で陸軍部が独立した。これが関東軍だ。

長春では、満鉄の長春駅を中心に広大な満鉄附属地が設定され、これを守備するために関東軍および独立守備隊が駐屯していた。
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(ピンク色の部分が長春の満鉄附属地。『長春偽満洲国那些事』吉林文史出版社、2011年、10頁より)

満洲事変勃発の直前には、関東軍第二師団第三旅団第四連隊の二個大隊と、独立守備隊の一個中隊合わせて1000人ほどの日本軍が長春にあり、これを警戒する南嶺大営および寛城子(二道溝)兵営の兵力合わせて6000余人の中国東北軍が、対峙していた。

1931年9月18日午後10時20分頃、奉天(現・瀋陽)郊外の柳条湖で満鉄線の線路が突然爆破された。中国東北部全土に軍事侵略を開始するための関東軍の謀略だった。この爆破を中国軍の仕業と偽った関東軍は、中国軍の最大拠点である奉天の北大営を奇襲してこれを制圧、まもなく奉天全市を占領下に置いた。

9月19日未明、長春の日本軍は南嶺大営と寛城子兵営の中国軍を奇襲、これに対して中国軍も激しく抵抗したが、激戦の末、日本軍はいずれも同日夕刻までに制圧した。半日の戦闘で、中国側の戦死者は約300人、日本側の戦死者は66人だった。
a6.JPG(南嶺大営への日本軍の突入跡)

関東軍の独断専行による軍事行動に、陸軍中央も同調・協力し、朝鮮軍(植民地朝鮮に駐屯する日本陸軍)は関東軍の支援のために独断で越境して満洲に入った。関東軍は日本政府の「不拡大」方針を無視して占領地を拡大、11月には黒龍江省のチチハル、翌年2月にはハルビンを陥落させた。こうした既成事実を、やがて政府も追認するようになった。

こうして満洲全土の主要都市をほぼ制圧した関東軍は32年3月、傀儡国家「満洲国」の建国を宣言させ、長春はその国都として「新京」と改称された。だが、住民の意思と無関係に日本軍が勝手に「建国」させたこの「国家」は、支配の正当性がきわめていかがわしかった。中国東北軍の残存部隊は、農民・馬賊などを糾合して「救国軍」を結成、各地で激しい抵抗を継続させた。朝鮮人を多数含む満洲の共産主義者たちも、抗日武装闘争を開始して遊撃戦を繰り広げた。以後十数年にわたる満洲抗日戦争の幕開けである。

こうした泥沼の状況で、日本側は抗日闘争参加者を「匪賊」と呼び、武力による徹底的な殺戮の対象とする一方(七三一部隊による人体実験にも供された)、満洲国の支配の正当性を捏造するためのプロパガンダ戦にも力を入れた。その一環として、満洲事変における最大の激戦地だった長春の南嶺と寛城子は、満洲国建国の聖地として宣伝されることになる。早くも31年の年末には、南嶺で戦死した日本兵の「英霊」を称えるプロパガンダ映画『噫!南嶺三十八勇士』が製作されている。
z9.jpg(『噫!南嶺三十八勇士』の宣伝絵葉書)

軍歌「噫!南嶺」でも「戦い済んで声限り 満州野に叫ぶ勝鬨に 見よ南嶺の空高く 夕日に映る日の御旗」と高唱された南嶺の地は、血塗られた色の夕日のイメージとともに当時の人びとの頭に刻み込まれた。
z4.jpg(絵葉書「南嶺で奮戦する倉本少佐」)

満洲建国を聖化する巡礼地として、南嶺と寛城子の戦跡には威圧的な記念碑が建てられた。満洲を永遠に中国から切り離して日本に従属させることを企図したモニュメントといえよう。それは、満洲事変および「匪賊討伐」戦(すなわち満洲抗日戦争)における日本・満洲国側の「英霊」を祀った「建国忠霊廟」(拙ブログ「「満洲国」の爪痕(1)――「靖国」としての建国忠霊廟」を参照)とともに、この人造国家の「国民」意識を発揚することを目的としたイデオロギー装置にほかならない。
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(絵葉書「国都新京ノ偉観」左が寛城子戦跡記念碑、右が南嶺戦跡記念碑)

1945年8月の日本敗戦に伴う満洲国崩壊後、これらのモニュメントは中国の人びとによって徹底的に破壊された。満洲事変という歴史上まれにみる愚挙をきっかけに、以後十数年にわたって中国東北の大地にいったいどれだけ膨大な血が流されたのかを思うと、気が遠くなる。

南嶺戦跡の地は現在、富裕層向けの高層マンションが林立する地区となっている。満洲事変80周年の2011年9月18日、高層マンション群の谷間に、「長春南大営旧址陳列館」がオープンし、この地で関東軍と戦い敗れた中国東北軍砲兵第10団部の正門が復元された。陳列館は「九・一九長春抗戦史跡」として、日本の満洲侵略および抗日戦に関する説明パネルと遺物が多数展示されている。
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(復元された中国東北軍砲兵第10団部の正門)

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この南嶺の地で戦闘が行われてからちょうど84年目の今日9月19日未明、日本では安保法案が一部支配層によって強行的に成立させられた。それは、日本国の暴力装置が再び外国に殺し合いに行くことを「合法」化するものである。東アジアに悲劇の歴史が繰り返されることを、私たち民衆は何としても食い止めねばならない。

「満洲国」の爪痕(7)神武殿旧址と牡丹園――日本の武道界と満洲侵略 [満洲国]

5月下旬の日曜日、長春の中心部にある「牡丹園」に出かけました。園内には牡丹(ぼたん)・芍薬(しゃくやく)など約二百六十品種・一万一千株が、七種の色に大別されて植えられています。満開になる5月下旬には一日およそ十万人の観光客が来園するとのことで、私が訪れた日も、繚乱する花々を楽しむ市民でにぎわっていました。
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牡丹園の由来は、日本の関東軍による満洲(中国東北部)侵略および「満洲国」建国の後、その国都とされた長春=「新京」の大規模な都市計画の一環として、市内を南北に貫く大動脈「大同大街」(現・人民大街)と新「帝宮」予定地とに挟まれたこの地に、都市公園の一つとして「牡丹公園」が1933年に建設されたことにあります。

日本敗戦による満洲国の滅亡に続く国共内戦など激動の時代を経て、この地は吉林大学の敷地となり、「牡丹公園」の西半分に大学関係施設が建てられた一方、東半分は「後花園」として残されました。この「後花園」がさらに改造されて98年「牡丹園」として一般開放され、市民の憩いの場となって今日に至るわけです。
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牡丹園の北側には、異様に大きな日本式屋根を載せた建物が見えます。P5240100.JPG
「紀元二千六百年」を記念して1940年に完成した「神武殿」旧址です。P5240104.JPG
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神武殿は、神道の祭祀施設を備えた総合武道場として建設され、柔道・剣道・弓道・相撲などの演武や試合を通じて、満洲における武道精神の宣揚が図られました。

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上の写真は、1942年に神武殿で開催された「建国十周年慶祝 日満交歓武道大会」に参加した合気道関係者の記念撮影です。中央右が合気道創始者の植芝盛平、左が植芝の高弟で満洲での合気道普及に努めた富木謙治です。

合気道と日本の満洲侵略との関係には浅からぬものがあります。「満蒙」の地に精神的な理想郷を建設することを夢見て1924年、大本教の出口王仁三郎が日本の関東軍特務機関の斡旋で満洲に渡った際、植芝がその身辺警護の役割で付き従ったことはよく知られています。こうして築かれていった軍関係者との密接なパイプを通じて、植芝の弟子の富木は1936年、関東軍からの招聘を受けて渡満し、新京の大同学院の講師として合気武道を指導、さらに1938年新京に建国大学が開設されるとその助教授(41年教授)となり、建国大学には正課として合気道が採用されることになりました(志々田文明『武道の教育力 ―満洲国・建国大学における武道教育』日本図書センター、2005年)。

日本敗戦後、富木はシベリア抑留を経て48年に帰国し、やがて早稲田大学教育学部教授に就任。日本の再軍備後は自衛隊徒手格闘の制定に協力し、75年には日本武道学会副会長に就任するなど、戦後も「活躍」しました。

ひとり合気道に限らず、日本帝国のアジア侵略に深く関与した武道界の責任は軽からぬものがあるでしょう。しかし、日本の武道界が自らの侵略責任に真摯に向き合ったという話を、私は寡聞にして知りません。

満洲国崩壊後、神武殿の建物は国民党軍校として使用され、さらに48年の東北人民解放軍による長春「解放」後は、東北大学(現・東北師範大学)および東北行政学院(現・吉林大学)がこれを使用し、57年には当時中国共産党が宣伝していた「百花斉放百家争鳴」「大鳴大放」のスローガン(自由な批判と討論の推奨)から「鳴放宮」と命名され、二千人収容可能な吉林大学の講堂となりました(その直後、「大鳴大放」は党内の「反右派闘争」へと暗転しますが)。

神武殿旧址は1990年、長春市の重点文物保護単位(重要文化財)に指定されたものの、まもなく吉林大学が移転すると建物はひどく荒廃し、屋根には雑草が生い茂るありさまとなりましたが、二年前の修復作業によって旧観を取り戻しました。しかし、日本帝国主義を象徴するこの建物をどう「活用」するのか、当局もまだ目処が立っていないようです。牡丹園の華やかなにぎわいとは対照的に、訪れる人もまばらな旧神武殿の正門はぴったりと閉じられ、重苦しい雰囲気を漂わせています。
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タグ:満洲国

「満映」から「長影」へ(1) [満洲国]

今年8月にオープンした「長影(長春映画製作所)旧址博物館」を先月訪れた。長春における映画製作の歴史はたいへん興味深いものがあるので、少し紹介したい。
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〔長影旧址博物館の主楼。旧・満洲映画協会(満映)の社屋で、昨年全国重点文物保護単位(国家級の重要文化財)に指定された〕

長春は中国最大規模の映画製作所「長春電影製片廠」(長影)を擁する、映画産業の中心地だ。その淵源は、長春が満洲国の首都新京と呼ばれていた1937年、満洲国と南満洲鉄道(満鉄)の折半による共同出資で国策映画会社「満洲映画協会」(満映)が設立されたことにある。すでにその四年前、関東軍(満洲に駐屯する日本軍)参謀の小林隆少佐の提唱で、関東軍と満洲国警察の支持のもと「満州国映画国策研究会」が発足していた。

満洲では日本の侵略以来、中国人・朝鮮人の抗日パルチザンと日本軍との戦闘が続いており、人工的な傀儡国家である満洲国に対する「国民」の忠誠心はきわめて低かった。37年7月には盧溝橋事件によって日中全面戦争の火ぶたも切られ、民心を鎮撫し国家への忠誠心を涵養して、戦争への精神面での動員を図ることが急務とされていた。満洲国の統治機関のそうした意図に基づいて、重要な国策企業として設立されたのが、満映だ。

満映では設立から8年間で、プロパガンダおよび娯楽向けの劇映画108本と、記録・教育映画189本が製作された。満映の発展を推進したのは、関東大震災のどさくさに紛れて大杉栄・伊藤野枝夫妻と6歳の甥を惨殺したことで悪名高い東京憲兵隊の元大尉甘粕正彦だ。甘粕は出獄後、満洲に渡り、関東軍特務機関のもと、満洲事変下のさまざまな謀略工作に暗躍した後、満洲国民生部警務司長、協和会(満洲国の政治的宣伝・教化機関)中央本部総務部長などの重職を歴任し、1939年に満映理事長の座についた。彼のもとで満映の大幅な機構改革が断行され、軍・警察による統制が強化される一方、日本から多くの映画人が高給で招聘された。

満映の看板スターとなった李香蘭(山口淑子。今年9月に死去)のデビュー作「蜜月快車」は1938年の制作(その主題歌「我們的青春」https://www.youtube.com/watch?v=NpCj6av3Id0 )。彼女は日本人だが満洲の奉天(現・瀋陽市)生まれで中国語に堪能、満映によって満人(中国人)女優として宣伝され、世間でも当時そう信じられていた。1944年に発売された彼女の「夜来香」は、抗日戦争中に「漢奸」(売国奴)歌曲と蔑まれつつも大陸でヒットした(李香蘭の歌う「夜来香」https://www.youtube.com/watch?v=fZCHk-McCws )。満洲国および日本の多くのプロパガンダ映画に出演した彼女は、敗戦後に漢奸として処刑されそうになったが、結局日本国籍の保持が判明して、生きて帰国することができた。

甘粕が満映理事長になった1939年、新京の洪熙街(現・紅旗街。長春の繁華街の一つ)に新しい製作所と新社屋が落成した。この建物は現存し、「長影旧址博物館」の主楼となっており、昨年「全国重点文物保護単位」(国家級の重要文化財)に指定された。その玄関の柱石には「定礎 康徳六年七月」という満洲国の年号が今も残る。
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1939年の時点で、新京には映画館が11館あった。うち35年に営業が始まった豊楽劇場は「東洋第一」と呼ばれ、座席数1124席、最大二千人を収容できたという。その建物は長春一の繁華街の重慶路に現存し、市の文化財に指定されている。
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〔重慶路に現存する旧・豊楽劇場〕

「満洲国」の爪痕(6)――東本願寺新京別院旧跡 [満洲国]

長春第一の繁華街・重慶路。喧噪をよそに、路地に入って少し北に行くと、いかにも日本風の入母屋造の大屋根が目に入ってくる。旧・東本願寺新京別院の本堂だ。
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この建物は、長春が「満洲国」の首都・新京と呼ばれていた1937年、真宗大谷派の満洲における布教拠点として竣工したが、満洲国滅亡・中華人民建国後は学校施設として使用されてきた。1985年に長春市の重要文化財に指定され、長春市第二実験中学の図書館・閲覧室として使われていたが、数年前に学校は移転し、建物の周囲で再開発が始まっている。

東本願寺(真宗大谷派)の中国大陸布教は1870年代に遡るが、その歩みは日清戦争後、日本国家の大陸への軍事的侵略に追随する形で進められた。日露戦争の結果、遼寧省南端の関東州(旅順・大連を含む)の租借権と長春・大連間の鉄道(後の南満洲鉄道=満鉄)権益をロシアから譲り受けると、日本仏教諸宗派は日本の勢力範囲に次々と拠点を置いて布教活動を行った。真宗大谷派も1919年、長春の満鉄附属地(日本が行政・軍事・警察・外交・司法権を行使)に布教拠点を設立している。

1931年9月18日、日本の関東軍の謀略で満洲事変が勃発すると、真宗大谷派(東本願寺)本山は早くもその翌日から軍への慰問行動を開始し、宗務総長は翌月、「国家の大方針を体認」し「国論の統一」に努めるよう諭達を発した。関東軍の武力によって満洲国が建国された1932年、日本政府の満洲移民政策に呼応する形で真宗大谷派は拓事講習所を開設し、開拓移民を精神面で支えることを目指した。

1934年には大谷光暢法主夫妻が満洲と華北を巡回し、満洲国皇帝溥儀に謁見、また満洲各地の布教所を視察して軍を慰問した。さらに同法主らは日中戦争勃発後の1938年1月から二か月にわたり、満洲各地および華北・華中における軍隊慰問のため、第二回の大陸巡教を行い、帰国後は日本全国で報告会が開催された。こうした大谷派の大陸巡教については、法主の妻(裏方)の大谷智子(裕仁〔昭和天皇〕の妻良子〔香淳皇后〕の妹)がその著作『光華抄』(実業之日本社、1940年)において、この「皇軍慰問の旅」の内容を詳しく述べ、「軍国の母を想ふ」「銃後婦人の覚悟」「戦歿勇士の遺族に」「長期建設の心構へ」などの小見出しで文を綴っている。

日本仏教の大陸布教は、1915年の「対華二十一か条の要求」の第五号において、中国での「日本人の布教権」を日本政府が要求したように、日本の軍事的大陸侵略と密接な関係がある。二十一か条要求の「布教権」は日本側が取り下げたので、中国における日本仏教の布教はしばらくの間、日本の植民地である関東州や満鉄附属地の居留日本人を主な対象としていた。が、満洲事変および満洲国成立後は、満洲国内の中国人への布教が積極的に試みられ、大谷派の満洲拓事講習所でも布教を目的とする中国語の学習が行われるようになった。

さらに日中戦争勃発後の1938年8月、文部省宗教局長は「支那布教に関する基本方針」の通牒を発し、「布教師をして住民の宣撫に当らしめ対支文化工作に寄与せしむること」が目的とされたことで、日本仏教の大陸布教は日本軍の特務機関の下請としての宣伝工作という意義を担うことになった。真宗大谷派は同年9月、東本願寺経営の「北京覚生女子中学校」を設立、また日本の傀儡となった汪兆銘〔精衛〕政権下の南京には「南京本願寺」や「金陵女子技芸学院」を設けるなど、日本軍特務機関との協力で戦時下の宣撫活動を積極的に担っていった。

こうした日本仏教の大陸布教は、独善的な日本仏教優位論に立って進められることも少なくなかった。例えば真宗大谷派のある布教使は、中国の仏教は「非常に低級」で「迷信が多く行はれてゐる」のに対して「日本に於ける仏教は、斯かる迷信を一掃した所の近代的人間生活に適応した高級な仏教」だと自画自賛している(「教育と宗教との提携(一)」『真宗』340号、1930年2月)。また日中戦争勃発後、大谷大学日曜学校研究会では、満洲事変に関する次のような教案素材が用いられることがあった。「あの満洲の大平野には、忠勇義烈なる陛下の赤子十万人が我が日本の生命線の礎となり、人柱となつて永久に埋れ居ます。…満洲大平野には、到る処に日の丸の旗が立てられ、土民達は情け深い日本軍のもとへ続々と集まつて来ました。…さうして事変が起つてから半年も経たぬ内に、新しく満洲国といふ国が誕生しました。…私たちは今すぐ銃を取つて戦場に立つことは出来ませんが、一心に勉強をし、銃後の護りは私達の手でしつかり握り合ひ、国家に対し御奉公申し上げる事を固く誓ひませう」(『真宗』457号、1939年9月)。

「貿易は国旗の後に付き従う」(trade follows the flag)というのが帝国主義の合言葉だとすれば、十五年戦争中の日本仏教の大陸布教はまさに、「仏法は国旗の後に付き従う」を実践したものだったと言えるだろう。日の丸に従属しながら満洲国全土に広まったように見えた日本仏教が、日本敗戦と満洲国崩壊後、あっという間に東北大平原から駆逐されたのも、必然の成り行きだった。東本願寺新京別院の旧跡は、かつて日本仏教が犯した罪業を今に伝えている。

なお敗戦後50年目の1995年、真宗大谷派の宗議会・参議会議員一同は、過去に宗門が犯した過ちを懺悔し、次の「不戦決議」を採択した。

私たちは過去において、大日本帝国の名の下に、世界の人々、とりわけアジア諸国の人たちに、言語に絶する惨禍をもたらし、佛法の名を借りて、将来ある青年たちを死地に赴かしめ、言いしれぬ苦難を強いたことを、深く懺悔するものであります。

この懺悔の思念を旨として、私たちは、人間のいのちを軽んじ、他を抹殺して愧じることのない、すべての戦闘行為を否定し、さらに賜った信心の智慧をもって、宗門が犯した罪責を検証し、これらの惨事を未然に防止する努力を惜しまないことを決意して、ここに 「不戦の誓い」を表明するものであります。

さらに私たちは、かつて安穏なる世を願い、四海同朋への慈しみを説いたために、非国民とされ、宗門からさえ見捨てられた人々に対し、心からなる許しを乞うとともに、今日世界各地において不戦平和への願いに促されて、その実現に身を捧げておられるあらゆる心ある人々に、深甚の敬意を表するものであります。

私たちは、民族・言語・文化・宗教の相違を越えて、戦争を許さない、豊かで平和な国際社会の建設にむけて、すべての人々と歩みをともにすることを誓うものであります。 右、決議いたします。

          1995年6月13日
          真宗大谷派 宗議会議員一同
          1995年6月15日
          真宗大谷派 参議会議員一同


また真宗大谷派東本願寺は、昨年開催された「第13回非戦・平和展」の際、宗務総長の署名で次のように述べている。

私たちの宗門は、明治期以降、宗祖親鸞聖人の仰せになきことを仰せとして語り、戦争に協力してきました。侵略戦争を「聖戦」と呼び、仏法の名のもとに、多くの青年たちを戦場へと送り出しました。そして遺族のみならず、アジア諸国、とりわけ中国、朝鮮半島の人々に、計り知れない苦痛と悲しみを強いてきました。さらに、非戦を願い、四海同朋への慈しみを説いたために、非国民とされた僧侶たちを見捨ててきました。

これらに対する懺悔の思念を旨として、宗門は1995年に「賜った信心の智慧をもって、宗門が犯した罪責を検証し、これらの惨事を未然に防止する努力を惜しまない」(「不戦決議」)という誓いを表明しました。
http://www.higashihonganji.or.jp/release_move/others/pdf/2013_peace_show.pdf

過去に犯した行為に対する真宗大谷派のこうした真摯な反省には、敬意を表したい。最近の安倍政権が目指す軍事大国化への傾向、例えば秘密保護法制定や集団的自衛権の行使容認への動きに対して、真宗大谷派が批判的見解を公式に表明しているのも、過去に日本帝国の戦争に協力した教団の歴史に対する反省に立つものといえる。

集団的自衛権の行使容認に反対する決議(真宗大谷派宗議会、2014年6月10日)
内閣総理大臣への「「特定秘密保護法案」の廃案に関する要望書」提出について(真宗大谷派宗務総長、2013年11月27日)

ところで中華人民共和国成立後、長らく学校施設として使われてきた旧東本願寺新京別院の建物は、長春市の重要文化財に指定されている。近年学校は移転し、付近では再開発が始まっているが、開発業者が無断でこの建物の一部を破壊していることが今年5月、新聞報道で伝えられた。近くに住む劉さんは次のように語る。「この建物は日本人が長春に建てたものですが、これは文化財です。一時期の歴史を代表するものです。なぜやすやすと壊してしまったのか」。長春市当局は開発業者に命じて工事を停止させ、現在調査中だという。
http://www.chinajilin.com.cn/jlnews/content/2014-05/07/content_3236486.htm

今月半ば、私は現場を訪れてみた。東本願寺新京別院の本堂の外観は前に掲げた写真のように無事に見えるが、屋根の一部や北側にある附属の建物が損壊されているようだ。敷地の外側の塀には、開発業者による宣伝の看板があり、東本願寺を高層ビルが取り囲む形で再開発の完成予想図が描かれている(写真下)。中国の現在を象徴しているかのようだ。
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いつの日か、真宗大谷派の代表団がぜひこの遺跡を訪れ、過去に教団が犯した過ちを中国・長春の人びとに対して直接に懺悔することを、私は強く願っている。特に日本と中国との間に不穏な波風の立っている今こそ、良心ある日本の宗教者の真摯な行動が求められていると、私は思う。東アジアに平和の種を播くためにも。

(参考文献:江森一郎・孫伝釗「戦時下の東本願寺大陸布教とその教育事業の意味と実際」『金沢大学教育学部紀要 教育科学編』43号、1994年2月、木場明志「真宗大谷派による中国東北部(満洲)開教事業についての覚え書き」『大谷大学研究年報』42集、1991年2月、中濃教篤「仏教のアジア伝道と植民地主義」『講座日本近代と仏教6 戦時下の仏教』国書刊行会、1977年。)
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長春で新たに公開された関東憲兵隊の史料群 [満洲国]

長春市にある吉林省公文書館で、日本の1930・40年代の大陸侵略(従軍慰安婦や南京大虐殺を含む)をめぐる史料が多数発見されたことは、最近日本でも報道されているとおりです。これらの新しい史料群がつい先月、一冊の史料集としてまとめられ、長春の出版社から公刊されました(《铁证如山:吉林省新发掘日本侵华档案研究》〔『鉄証如山―吉林省で新たに発掘された日本の中国侵略文書の研究』吉林出版集団、2014年4月〕)。この史料集をこのほど入手しましたので、ここに紹介します。
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本書の解説によれば、今回発掘された史料はいずれも、旧満洲国の首都新京(現・長春)に日本の関東憲兵隊が遺した一次資料です。新京には関東軍司令部(中国共産党吉林省委員会の建物として現存)と関東憲兵隊司令部(吉林省人民政府の建物として現存)がありました。1945年8月、日本降伏と満洲国崩壊の際、関東軍はほとんど全ての公文書や秘密資料を焼却・破却したのですが、中華人民共和国成立後の1951年11月、旧憲兵隊司令部の敷地内の地下から多くの文書が発見されました。
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関東憲兵隊司令部(新京)

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現在の関東憲兵隊司令部旧址(現・吉林省人民政府)

当時、撫順戦犯管理所に拘禁されていた元新京憲兵隊曹長の弘田利光の供述により、これらが関東憲兵隊の滅却しそこなった文書群であることが明らかにされました。これらの文書群はその後、吉林省公安庁が接収・整理した後、1982年に吉林省公文書館に移され、近年になってようやく本格的な研究が開始されたのです。

関東憲兵隊司令部が長春に遺した文書群は約十万件に達しますが、うち従来整理・研究されたものはわずか2%に過ぎません。今年の初め、中国の国家社会科学基金の重要プロジェクトとして、「吉林省公文書館所蔵の日本軍の中国侵略文書の整理研究」が始動し、文書群の本格的な研究がはじまりました。その最初の成果として、このたび89件の史料が公表され、幅広く研究者が利用できるよう、史料集として公刊されたのです。

89件の史料は、すべて実物が鮮明なカラー写真で印刷されており、あらゆる研究者が客観的に検証できる形になっています。史料集に収録された文書の中には、満洲国や日本軍占領地における統治の実態を解明するうえで重要なものも含まれており、今回の史料の公刊がもっている意義を大いに評価したいと思います。

史料集は全729ページ、「南京大虐殺関係文書」「従軍慰安婦関係文書」「731部隊関係文書」「日本軍の強制労働関係文書」「日本軍暴行関係文書」「日本の中国東北(満洲)移民侵略関係文書」「東北抗日聯軍(満洲の抗日パルチザン)関係文書」「米・英軍捕虜に対する尋問・虐待関係文書」の八部から成ります。89件の全ての史料はカラー写真とともに、中国語による要旨と解説が付されています。

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本書121ページ(慰安婦関係史料)

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本書264ページ(強制労働関係史料)

先に述べたように、史料の公刊は中国の国家的研究プロジェクトの一環として実施されており、史料選択の「政治」性(とくに最近の緊張する日中関係をめぐる)も否定できないでしょう。また、出版を急いだためか、解説文の中には首を傾げざるを得ない箇所もあります。が、史料自体の価値は高く、あらゆる研究者が検証できる形で刊行されたことの意義は十分に評価すべきだと考えます。

そもそも、抗日戦争(日中戦争)の勝利は、中国共産党政権の歴史的正当性を構成する最も重要な根拠の一つであり、その関係史料は厳重に管理され、未公開のものも多数あります。満洲国関係の史料も同様で、吉林省公文書館所蔵の関東憲兵隊関係史料10万件のうち、今回公表された89件は氷山の一角にすぎません。満洲中央銀行の文書の整理はさらに遅れているようです。今回の史料集公刊を機に、関係史料の公開と研究がさらに広く進んでゆくことを願ってやみません。

なお、従軍慰安婦や強制労働に関する史料など、このたび公にされた史料について、本ブログ上で少しずつ紹介してゆく予定です。

「満洲国」の爪痕(5)――長春・人民大街 [満洲国]

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写真の街路は、私の住んでいるアパートの面する「人民大街」です。かつて長春が「満洲国」の首都「新京」と呼ばれていた1938年、首都の中央を南北に貫く大動脈として、この道路は完成しました。当時の名は「大同大街」。
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【2013年5月撮影】

1931年満洲事変を起こして中国東北地方の奥深くまで侵略した日本の関東軍は、翌32年に「満洲国」を建国し、南満州鉄道(満鉄)の北方の拠点である長春を「新京」と改称して新国家の首都としました。満洲国を牛耳る関東軍や満鉄の日本人を中心に、新京を国都として整備する都市計画の立案が行われ、まもなく新市街の建設が始まりました。その際、満鉄の新京駅から真っ直ぐ南に延び新市街の中央を貫くメインストリートとして、幅員54メートル、全長10キロメートルに及ぶ「大同大街」が整備されたのです。
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【写真左、新京特別市・満洲事情案内所共編『新京概観』1936年(wikipediaより http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Manchukuo_Hsinking_Map_1936.jpg )。写真右、現在の長春市街図(googleマップより)】

この街路の建設過程で、いくつもの村落が強制撤去され、村人は流離を強いられました。そうした過程を経て大同大街には、事実上の最高権力機関である関東軍司令部をはじめ、関東軍憲兵司令部、満洲国首都警察庁、満洲中央銀行、満洲国協和会中央本部など、支配権力を象徴する建物が立ち並んでゆきます。
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【1939年の大同大街(wikipediaより http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Manchukuo_Hsinking_avenue.jpg )】

1945年満洲国の崩壊後、ソ連軍の占領下で新京は再び長春と改称され、大同大街も「斯大林(スターリン)大街」へと名を変えました。長春が中華民国国民政府の施政下に置かれた1946年、スターリン大街は「中正大街」(中正は蒋介石の正名)に改称され、共産党軍による包囲戦を経て長春が「解放」された48年、再び「スターリン大街」の名に戻されました。

それから50年近く経過した1996年、ソ連崩壊など時代の変化を踏まえて、長春市政府は「スターリン大街」を「人民大街」に改称して現在に至ります。

大同大街をはじめ、国都建設計画によって整備された新京の街路は、ほぼそのまま現在の長春の中心市街をなしています。関東軍司令部は中国共産党吉林省委員会として、憲兵司令部は吉林省人民政府として、首都警察庁は長春市公安局として、満洲中央銀行は中国人民銀行長春支店として再利用され、今も人民大街にその威容を誇っています。
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【人民大街沿いの中国共産党吉林省委員会(旧・関東軍司令部)】

タグ:長春 満洲国

「満洲国」の爪痕(4)関東軍司令部――最高権力の表徴 [満洲国]

長春市の中心部に鎮座するこの建物を前にすると、いったい自分が今どこに立っているのか分からなくなるような戸惑いを覚えます。中国の風土とは全く異質なこの巨大な建物は、傀儡(かいらい)国家「満洲国」の権力の源泉であった日本の軍事力の根拠地、関東軍司令部として1934年に竣工しました。
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【2013年12月撮影】

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【1935年の関東軍司令部(wikipediaより http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Kwantung_Army_Headquarters.JPG )】

関東軍の起源は、日露戦争に勝利した日本が、遼東半島南部の「関東州」(旅順、大連など)の租借権と、長春―旅順間の鉄道(後の満鉄)および付属地の権益をロシアから譲渡され、これらを統治する行政・軍事機構として1905年、天皇直属の「関東総督府」を遼陽(遼寧省)に設置し、軍隊を配備したことにあります。総督府は翌年、「関東都督府」に改組して旅順に移転、その守備隊である「関東都督府陸軍部」がこの地の日本権益の防衛にあたりました。

1919年、関東都督府はさらに改組して「関東庁」となり、同時に軍事部門が分離して「関東軍」が成立しました。関東軍は単にこの地の日本権益を防衛するにとどまらず、権益の拡大を目指して中国の国民革命に干渉したり、ソヴィエト・ロシアに対抗する戦略を策定したりするなど、しだいに独善性を強めてゆきます。1928年、関東軍は奉天軍閥の巨頭で中華民国軍政府大元帥の張作霖を爆殺するという謀略事件を起こしました。

さらに関東軍は武力による満洲の領有を計画しそのための謀略を立案、軍中央の容認のもとで1931年9月18日、奉天郊外の満鉄の線路上で爆薬を爆発させました(柳条湖事件)。関東軍はこの爆発を中国側による犯行と偽り、これを口実に中国軍に対して奇襲攻撃を行い、一挙に満鉄沿線を武力制圧しました。さらに独走する関東軍は戦線を拡大、数か月で満洲の全主要都市を占領し、この武力を背景に32年3月、傀儡国家「満洲国」を成立させたのです。

その直後、長春は満洲国の首都に定められて「新京」と改称、巨大な都市計画に基づいて様々な国家機関の建物が仰々しく造られてゆきます。1934年8月、新京の中心部に完成した地上四階・地下一階、日本の城郭の天守閣のような意匠の「帝冠」を戴くこの巨大な建物に、関東軍司令部は本拠を定めました。

この建物の主である関東軍司令官は関東長官(行政)と駐満洲国日本全権大使を兼ねていました。関東軍司令部は強大な武力を背景に、満洲国における事実上の最高権力機関として、抵抗者を容赦なく殺戮しながら、日本の満洲経営の全権を握り続けたのです。

1945年8月、日本の敗戦とともに満洲国は崩壊し、関東軍司令部の建物はソ連赤軍の東北地区総司令部となりました。ソ連撤退後の1946年、新たに長春に進駐してきた中華民国国民革命軍がここに本拠を置き、1948年の「解放」後は中国人民解放軍がこの建物を使用しました。そしてこの建物は1955年、この地域の最高権力機関である中国共産党吉林省委員会の本拠となって、今日に至ります。

この建物が完成してからまもなく八十年。建物の主は二転三転したものの、この土地に君臨する政治権力の在り処を明示するというこの建物の本質的機能は一貫しており、今日もその威光を放ち続けています。

満洲国の爪痕(3)満洲国総合法衙――無数の「合法的」殺戮の記憶 [満洲国]

家族連れやカップルたちの遊覧ボートでにぎわう南湖公園の休日。湖の対岸にある森の向こうに、ひときわ目立つ異様な雰囲気の建物が見えます。1936年に建てられた「満洲国総合法衙」です。
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地上四階(中央部六階)・地下一階、建築面積1万5千平方メートルの巨大な建物の中には、満洲国最高検察庁・同最高法院(最高裁判所)・新京高等検察庁・同高等法院など、満洲国の主要な司法権力機関が置かれていました。これらの機関は、満洲国の治安体制の一環としても重要な役割を担っていました。

日本の軍事力によって強引に造られた満洲国の特徴の一つは、その極端な暴力性にあります。日本の過酷な支配に抵抗する現地民衆に対しては、徹底的な弾圧が加えられました。そうした暴力的弾圧(すなわち殺害)を正当化する根拠法となったのが、1932年に制定された「暫行懲治叛徒法」と「暫行懲治盗匪法」という二つの法律です。とりわけ後者は、現場での緊急措置として即決処分を認めており、抗日運動に参加した人々を「匪賊」とみなして「討伐」するために大きな威力を発揮しました。1932年から40年までに「合法的」に「討伐」(殺戮)された「匪賊」の死者数は、公式の数字でも六万五千人以上に及びます(荻野富士夫「「満洲国」の治安法」『治安維持法関係資料集』第4巻)。

上の二つの暫定的な立法に代わる恒久的な治安法として1940年12月、満洲国政府は「治安維持法」を公布・施行しました。この治安維持法の立法に関わり、新京高等法院の審判長として数々の思想治安事件を裁いた飯守重任(1906~1980年)は、次のような手記の一節を残しています。

「この法律を立法することに依って、ぼくはいわゆる熱河粛清工作に於いてのみでも、中国人民解放軍に協力した愛国人民を一千七百名も死刑に処し、約二千六百名の愛国人民を無期懲役その他の重刑に処している。ぼくの立法した「治安維持法」の条文は愛国中国人民の鮮血にまみれている。」(荻野、前掲論文より引用)

このように満洲国においては、無数の中国民衆が「合法的」に殺されていったのです。こうした「合法的」殺戮の血にまみれた「満洲国総合法衙」は、日本の敗戦後に中国国民党政府に接収され、さらに国共内戦を経て人民解放軍に接収されて、中国人民解放軍空軍病院(通称四六一医院)の建物として現在もそのまま使われています。
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〔上の写真は「満洲国総合法衙」(現・中国人民解放軍空軍病院)正面玄関。下は総合法衙の建物を描いた「満洲国」時代当時の絵葉書〕
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満洲国の爪痕(2) 南湖公園 [満洲国]

10月1日は中華人民共和国の建国の記念日である国慶節。中国全土は一週間の長期休暇に入り、建国を祝うさまざまな催しが行われます。国慶節の当日、ここ長春はあいにくの雨天でしたが、昨日(2日)は素晴らしい秋晴れでした。前日までの雨が大気中の塵埃を洗い流し、すがすがしい青空が広がりました。

長春の昨朝の最低気温は3度。街路樹は早くも黄色く色づき、落葉がはじまっています。澄んだ空気と秋晴れに誘われて、市内の中心部にある「南湖公園」に散策に出かけました。
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南湖公園の由来は、長春が「満洲国」の首都「新京」と呼ばれていた時期にさかのぼります。日本の関東軍は満洲事変の翌1932年に傀儡国家「満洲国」を建国した後、満洲国国務院に国都建設局を置き、近代的都市計画に基づく国都=新京の建設に着手しました。その際、市南部を流れる河水を堰き止めて人口湖を造り、その周囲の広大な緑地を都市公園「黄龍公園」とすることが立案され、33年から工事が開始されました。37年に水面積約100万平方メートルの人造湖「南湖」が完成しました。

南湖の周囲には1940年に開設された「民俗陳列館」のほか、「仏舎利塔」「万霊供養塔」などのモニュメントが建造され、さらに黄龍公園の北辺は「大東亜戦争宣戦記念塔」の建設予定地とされました。

1945年満洲国滅亡後、国民党政権は新京を長春の名に復し、黄龍公園も「南郊公園」と改称されました。国民党と共産党の内戦が激化していた1948年5月、国民党軍の立て籠もる長春市を中国共産党の東北人民解放軍が包囲し、10月に陥落しました。この五か月間の包囲戦の中で十~数十万人の長春市民が餓死し、市街には餓死者が山と積まれたと言われています。

国共内戦が一段落し中華人民共和国が建国された49年、南郊公園はさらに「南湖公園」と改称され、現在に至ります。かつて「大東亜戦争宣戦記念塔」の建設予定地だった場所に1988年、中国共産党が長春を国民党支配から「解放」したことを記念する巨大な「長春解放紀念碑」が建設されました。
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現在の南湖公園の面積は約222万平方メートル(日比谷公園の約14倍、代々木公園の4倍以上)、市民の憩いの場として、休日には多くの家族連れでにぎわっています。
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「満洲国」の爪痕(1)――「靖国」としての建国忠霊廟 [満洲国]

長春市内の私のアパートから歩いて10分ほどのところに、異様な雰囲気の廃墟があります。「満洲国」時代の1940年に建てられた「建国忠霊廟」です。
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【2013年6月撮影】

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【1941年の建国忠霊廟(wikipediaより http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:State_Foundation_Martyrs_Shrine_in_Manchukuo.JPG )】

日本の関東軍によって1932年に「建国」された、傀儡(かいらい)国家「満洲国」。その統治も当然、日本軍のむき出しの暴力によって行われました。建国から数年を経て、関東軍および満洲国政府は権力支配を円滑化するため、一般民衆に「満洲国民」としての意識を無理やり植えつけることを試みます。そこで、「建国」の犠牲となった「英霊」(ほとんどが日本軍人)を祀り、「国民」に参拝を強要する施設(日本の靖国神社に当たる)を建設しました。それがこの「建国忠霊廟」です。
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「勤労奉仕」という美名のもと、14万以上の労働力が強制動員された末、建国忠霊廟は1940年8月に完成しました。その総面積は45万6千平米、広大な緑地の中に長さ1キロを超える参道および拝殿・本殿などの施設群が設置されました。同時期に満洲国皇帝の皇宮内に建設された「建国神廟」が天照大神を祀る一方、国家の「英霊」を祀る建国忠霊廟はその「摂廟」(附属の廟)として位置付けられ、互いに補完関係にありました。

廟の門・拝殿・本殿等の中心的建築群は、満洲国崩壊後もどういうわけか破壊されず、放置されたまま現存しています。今これらは空軍の敷地内にあり、立入り制限された私有地に囲まれているため、ここをわざわざ訪れる人はきわめて少ないでしょう。
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建国忠霊廟の伽藍の軸線は、ちょうど日本の伊勢神宮の方角を向くように測量され、真北から西へ46度 54分 38秒に据えられました。周囲の街路は全て、南北・東西に直交していますが、この廟の伽藍だけが、海の向こうの伊勢神宮に向けて斜めに建設されたのです。そのため現在もなお、これらの建築群は周囲の街並みから異様に浮き上がって見えます。下のGoogle Earthの衛星写真画像を見ると、そうした位置関係がよくわかります(中央の斜めに横切る建物群が建国忠霊廟)。
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廟の門の右側の壁には「偉大なる領袖毛主席万歳」、左側には「偉大なる中国共産党万歳」という、恐らく文革時代に書かれたスローガンがありますが、長年の風雨でほとんど消えかかっています。
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さらに門扉には、「打倒日本帝国主義」「消滅日本鬼子」という落書きが見えます。
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近年、吉林省や長春市は、満洲国時代の遺跡を「観光資源」としてアピールするようになりました(今でも賛否両論があるようですが)。そうした遺跡の中でも建国忠霊廟は、1987年という比較的早い時期に、吉林省の保護文化財に指定されています。がしかし、「満洲国の靖国」であったこの廟の観光化はいまだ全く行われず、屋根瓦の隙間から雑草や低木が生い茂る廃墟と化す一方、その門前は近所の幼稚園児たちの恰好の遊び場となっています。
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