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長春の清真寺(モスク) [中国・近現代史]

下の写真は長春の清真寺(イスラム礼拝堂、モスク)。長春市内で最も古い建築物の一つで、吉林省の重点文物(重要文化財)に指定されている。
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そもそも長春という都市は、清朝の後期に長春庁が設置されたことに始まる。小さな街を取り囲む形で城壁が建設されたのは1865年。この地に清真寺が建てられたのはそれを四十年も遡り、1852年に現在地に移転して今日に至る。

清朝末期まで辺境のちっぽけな城市にすぎなかった長春が急速に発展しはじめたのは、二十世紀に入ってからのことだ。その発展は帝国主義列強の満洲(中国東北部)侵略とまさに歩みを共にしていた。帝政ロシアが清朝から奪った利権として満洲を東西・南北に貫く鉄道路線(中東鉄道)を完成させたのが1903年。間もなく勃発した日露戦争によって、日本はロシアから長春以南の鉄道利権を奪い取り(南満洲鉄道=満鉄)、長春駅の周辺に一種の植民地として「満鉄附属地」を設置、その域内では日本が行政・司法・警察・軍事権などを行使した。

1931年9月18日に始まる満洲事変によって中国東北部を手中に収めた日本の関東軍は、翌年「満洲国」を建国、長春を「新京」と改めこれを国都とした。仏教・キリスト教・イスラム教・道教など現地のあらゆる宗教は、その軍事的権力の統制下に置かれ、傀儡国家の統治への利用が試みられてゆく。

1945年8月、日本の敗戦とともに満洲国は崩壊、ソ連軍が中国東北部を席巻した。その後長春では中国国民党による統治が始まるが、まもなく共産党との内戦に突入。東北人民解放軍による五か月間の包囲戦の末、48年10月、長春の国民党軍は降伏した(この包囲戦の間、一般市民に数十万の餓死者が出たと言われる)。

1960年代、文革の荒波は長春にも押し寄せ、清真寺の敷地は市の中学校によって占有された。文革終了後の79年に中学校はようやく移転し、清真寺は修築されてムスリムの信仰の拠点として復活した。かつて清真寺には巨大な榆(にれ)の老木があり、二十メートル四方に枝を伸ばす様子から「九龍榆」と呼ばれてムスリムたちに親しまれていたが、文革の動乱中にひどく痛めつけられたことがもとで、90年代に枯死してしまったという。

現在、吉林省のイスラム教徒人口は約11万9千人で、全人口の0.4%余り(2010年)。清真寺の周囲には、回族(イスラム化した漢民族)をはじめ少数民族の経営するイスラム系のレストランホテルが立ち並ぶ。なかでも有名なのは「回宝珍餃子館」で、張作霖統治下の1924年に開店した長春有数の老舗だ。
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長春の激動の百五十年を見つめつづけてきた清真寺。このモスクが歴史の数々の荒波に耐え、長春市内最古の建築物という栄誉を担っているのは、それがムスリムたちの信仰の空間としていかに大切に守られてきたかを、物語っていよう。

歴史を直視しない二つの国家権力の相似性 [中国・近現代史]

ちょうど25年前、「党」の軍隊が一般市民に恐ろしい銃口を向けた天安門事件。かの国の多くの人びとがこの事件について口を閉ざしてしまうのは、それが革命以来の「党」の権力支配の道義的正当性を根本から傷つけたことを認識しているからだ。そしてこの国では、「党」の執政の正当性について議論することは、一切許されていない。

当時の中央の首脳たちは、学生・市民の民主化運動がこのまま拡大すれば「党」の権力支配を揺るがす深刻な内乱につながりかねないと判断し、これを暴力で押しつぶすことを決定したのだろう。彼らとその後継者たちは、この決定によって「党」と国家の秩序が守られたと考え、その正しさを信じて疑わないようだ。が、膨大な犠牲を出したこの事件の傷痕は、決して癒えることなく疼き続けており、これを放置すればするほど「党」の権力支配の正当性を腐朽させてゆくことは間違いない。

支配の道義的正当性をみずから傷つけてしまった「党」にとって、経済発展だけが権力への支持を調達する唯一の手段となっている。しかし急速な経済発展は、一定の受益層(支配層と新中間層)と、置き去りにされた膨大な大衆との間に意識の亀裂をもたらした。さらに受益層といえども、「党」への忠誠は実利的なものに過ぎず、公称の党員数八千五百万という数字が見かけ倒しなことは中央自身がよく知っているはずで、反腐敗キャンペーンの拍手喝采でかろうじて権威を保っている状況だ。

25年前の「事件」に真剣に向き合うことが、「党」の執政の道義的正当性を回復するための鍵であることは間違いない。それに気づいている人も少なくないと思う。しかし、この問題を再び公的に議論するに足る強力な指導力を発揮できるようなリーダーが出現することは、当面望み薄だ。だがそれなしに「党」の将来を展望することはできないはずだ。

 こうした問題は、日本人にとっても決して他人事ではない。近代天皇制国家が侵略戦争によって国内外の膨大な人々にもたらしたとてつもない惨禍、そして国内の体制批判者に対して行った「大逆事件」をはじめとする凶暴な数々の弾圧の傷痕は、今も癒えることなく疼きつづけている。過去に日本国家が犯した兇悪な犯罪に対して、最高責任者の裕仁は何の責任も取らず謝罪もしないまま天寿を全うし、彼の股肱の臣たち=旧支配層の多くは戦後も引き続き国を牛耳っている。安倍晋三など彼らの直系の後継者たちの跳梁は今に始まったことではない。そして沖縄はかつても今も、相変わらず彼らによって捨て石にされ続けている。

近代天皇制国家の暴虐の犠牲となった国内外の無数の死者を踏みつけにしたまま、「象徴天皇制」に転形した「国体」の無窮を寿ぐグロテスクな光景は、日本社会においてもはや空気と化し、これを不思議に思う人はわずかだ。支配層のこうした恥知らずな態度を黙認している日本人たちがはたして、天安門事件に対する隣国の権力者たちの開き直りを非難する資格があるのかどうか、はなはだ疑問に思う。

文化大革命の傷跡――元紅衛兵たちの「お詫び」 [中国・近現代史]

文化大革命が猛威を振るった1960年代後半、北京師範大附属女子中学(現・北京師範大学附属実験中学)で「紅衛兵」として活動した元生徒20数名と、当時の教員およびその遺族30数名が昨日(1月12日)面会し、元生徒たちは四十数年前に自分の先生に対して行った暴行致死事件について「お詫び」を述べました。
(『新京報』1月13日)http://epaper.bjnews.com.cn/html/2014-01/13/content_489922.htm?div=-1

事件のあらましは次のようなものです。1966年6月2日、北京師範大附女子中学に「命をかけて党中央を守れ、毛主席を守れ」という壁新聞が突然張り出され、同校の幹部や教員たちに対する攻撃が始まりました。翌日から学校は文革派によって占拠され、授業は停止、代わりに毛沢東の著作の学習が命じられます。学校の至る場所に教員たちを次々と告発する壁新聞が連日張り出され、生徒は教員を呼び捨てにし、さらに罵倒、糾弾が始まりました。

生徒の糾弾の標的になったのは、同校の副校長(当時校長は設置されなかった)だった卞仲耘さんという50歳の女性でした。若かりし頃抗日戦争に参加し、建国後の49年から教師としてずっと同校に勤めてきた卞副校長は、しかし文革の開始とともに「反毛」思想の持ち主とみなされて壁新聞や面前で連日生徒に罵倒され続けました(彼女の「罪状」として、地震で避難する際に毛沢東の肖像を持ち出すことに消極的だったことなどが挙げられました)。

66年6月23日、卞副校長の全校糾弾大会が開かれ、彼女は跪かされたうえ両手を縛り上げられ、教え子らから殴る、蹴る、泥を口や目に入れられる、唾を顔中に吐きかけられる、といった暴行を受けました。さらに8月5日、「反革命修正主義分子」とみなされ、生徒の紅衛兵らによって、腹を蹴る、顔を踏みにじる、大小便を頭からかける等、いっそう激しい暴力にさらされ、意識を失い手押し車の中に投げ込まれたまま亡くなりました。彼女の死亡証明書には「死因不明」と記され、残された四人の子供たちと夫は泣き寝入りのまま長いこと沈黙を強いられました。

文革終了後の1979年、遺族は北京市公安局および検察院に卞さん殺害事件の捜査と起訴を求めましたが、時効のため不起訴とされました。その後も事件の究明を求める遺族の訴えは絶えることなく、ようやく2009年、元生徒らによって卞副校長の銅像が造られ、そして昨日のお詫びとなったわけです。

昨日、事件のお詫びをした元生徒の中に、宋彬彬氏がいました。宋氏は中国共産党の「八大元老」の一人宋任窮の次女で、66年当時北京師範大附女子中学の高等科三年生。卞副校長糾弾のきっかけとなった最初の壁新聞を張るなど、同校の紅衛兵のリーダーとして「活躍」しました。卞副校長の殺害から間もない66年8月18日、宋彬彬氏は天安門の楼上で毛沢東に「紅衛兵」の文字が刺繍された腕章を捧げ、毛沢東から「宋要武」の名を与えられたことで有名です。

宋彬彬氏は父親の失脚とともに一時期下放されましたが、72年に長春の大学に入学、80年代に米国に移住してマサチューセッツ工科大学で博士号を取り、アメリカ国籍も取得しそのまま永住生活を送っています。

今回北京を来訪した宋彬彬氏は、遺族らとの面会で涙を流し、亡くなった先生への「お詫び」の意を表す一方、当時自分は暴力を振るったことはなく、他の生徒の先生に対する暴力を止められなかったことに自分は責任を感じる、という趣旨を述べました。

文革時の暴力事件の遺族に対し当事者が「お詫び」したことについて今回報道したのは、独自取材で定評のある『新京報』ですが、この記事は多くの人の注目を集め、ネット上にさまざまな意見が書き込まれています。文革が中国社会に残した傷は今なお癒えてはいないようです。

http://epaper.bjnews.com.cn/html/2014-01/13/content_489922.htm?div=-1
http://politics.caijing.com.cn/2014-01-13/113810571.html
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