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天皇の「おことば」と立憲主義 [日本・近代史]

明仁氏の名で発表された新年所感が、FB上でちょっとした論議の的になっている。それにしても、今の日本社会のあり方に対して一見批判的なポーズを示す人が、天皇の「おことば」なるものに自分の意見を忖度して欣喜雀躍する姿は、毎度のことながらうんざりさせられる。こうした現象の問題点については、以前池澤夏樹氏について論じたことがあるので、ここには繰り返さない。

民衆を抑圧する日本政府と違って天皇は民衆の側に寄り添っているはずだという空想、天皇こそ世直しの旗手だといった妄想は、明治初年から現在まで日本社会に根強いやっかいな観念だ。こうした観念は、より良い方向へ社会を変革するために何の役にも立たなかったばかりか、日本社会の民主化を阻害し、日本帝国のアジア侵略を草の根で支えるイデオロギー的な役割さえ果たした。

1901年の暮れ、議会開院式に出席した帰途の睦仁(明治天皇)の騎馬車列に、田中正造が直訴を行い、足尾鉱毒被害民の救済を嘆願した。「草莽ノ微臣田中正造、誠恐誠惶頓首頓首謹テ奏ス」で始まる美文の直訴状を執筆したのは、新進気鋭の批判的ジャーナリストであった幸徳秋水。その内容は、「列聖ノ余烈ヲ紹ギ、徳四海ニ溢レ、威八紘ニ展ブ」る「陛下」に対して、鉱毒問題に無為無策の政府当局を非難・告発し、どうか自らの「赤子」を御救いくだされ、と天皇の「深仁深慈」にすがりつくものだった。

こうした田中の直訴が、許すべからざる不敬行為なのか、はたまた忠良なる臣の掬すべき衷心より出た義挙なのか、喧々たる論議を呼び起こした。こうした騒ぎは、一昨年に山本太郎参院議員の「直訴」をめぐっても繰り広げられたように、日本社会におなじみのものだ。

この騒ぎの渦中、幸徳は「至仁至慈の皇室を奉戴」する日本国民が「天皇陛下に直訴せんと欲するに至ること、まことに日本帝国臣民の至情」であると述べて、田中の直訴を自画自賛した(「臣民の請願権(田中正造の直訴に就て)」『万朝報』1901年12月12日)。そのころの幸徳は、「憲法は軽からざるに非ず、然れども勅語は更に重きなり」と、天皇の「おことば」を憲法より上に置くという天皇主義者だったのだ(「勅言下る」『万朝報』1901年3月15日)。

当時ありふれていたこのような天皇主義を、正面から厳しく批判した人がいた。木下尚江だ。木下は田中正造を深く敬愛していたが、直訴という行為だけは容赦しなかった。木下はいう、田中の直訴は「立憲政治の為めに一大非事」である。なぜなら、帝王に向て直訴するは、是れ一面に於て帝王の直接干渉を誘導する所以にして、是れ立憲国共通の原則に違犯し、又た最も危険の事態であるからだ、と(「社会悔悟の色」『六合雑誌』1902年1月)。政治権力、とりわけ天皇制権力が恣意的に行使される余地を許さないという、立憲主義の原則に立った決意が、彼の言葉にはっきりと表れている。そもそも木下は、天皇を神聖不可侵としつつ絶大な大権を与えた明治憲法体制では、真正な立憲政治を実現できないと考えていた。演説会での彼の舌鋒は、おのずとこうした「国体」問題にも及んだ。

幸徳と木下は社会主義の同志だったが、国体=天皇制問題をめぐり意見が一致しなかった。幸徳は、「二千五百年一系の皇統」に基づく「国体」と社会主義とは矛盾なく調和すると信じていたのだ(「社会主義と国体」『六合雑誌』1902年11月)。その幸徳は、しばしば「国体」に触れる発言をする木下を次のように叱りつけたという。「君、社会主義の主張は、経済組織の改革ぢやないか。国体にも政体にも関係は無い。君のやうな男があるために、「社会主義」が世間から誤解される。非常に迷惑だ」、と(木下尚江『神 人間 自由』中央公論社、1934年)。

このように社会主義者にまで浸潤していた天皇主義に対して、木下は憤怒の激語をもらした。「日本の識者が社会党に恐るゝ所はその純白の民主主義に在り。しかれども彼等が目して最も猛悪なる兇漢と指す社会党員すら、一たび諸君の前に立つ時は、「否な、我等は只だ経済的平等を希望するに過ぎず」と汲々弁疏するに非ずや。日本の識者と権力者とが社会党を目して君主政治の顚覆者とするに拘らず、社会党自身は却て之を以て己等を誣ふる者と憤激す。看よ、日本の何処に君主政治を否定する所の思想あり熱情ありや。」(「革命の無縁国」『新紀元』1906年9月10日)。

こうした木下の警告を受け入れたのかどうかは分からないが、田中正造も幸徳秋水もその天皇主義的な観念をまもなく払拭していった。田中は二度と上からの御慈悲にすがることなく、渡良瀬の農民とともに抵抗する道を選び、幸徳はアナーキズムの道を歩みはじめる。

だが一般には、百年前の木下の警告はまもなく忘れられ、その剛直な立憲主義に基づく天皇制批判の思想はついに日本社会に根付かなかった。立憲主義の原則すら無視して天皇にすがりつく「リベラル」は今も後を絶たない。
例えば内田樹氏は、「天皇陛下の政治的判断力への国民的な信頼」を説き、「今国民の多くは天皇の『国政についての個人的意見』を知りたがっており、できることならそれが実現されることを願っている。それは自己利益よりも『国民の安寧』を優先的に配慮している『公人』が他に見当たらないからである。私たちはその事実をもっと厳粛に受け止めるべきだろう」などと発言している(『AERA』2013年11月18日、雁屋哲氏のブログ「内田先生ご乱心、いや本心か」より重引)。日本国憲法の第三条「天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負ふ」、第四条「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない」に挑戦する、危険な非立憲的発想といわざるを得ない。

この内田氏の発言について、雁屋哲氏は上のブログで次のように批判している。「こうして、〔内田〕氏の文章を書き写すだけで、私は体の奥底から吐き気というか、脊髄の中に強酸を注入されたらかくもあらんかという、死んだ方が良いようないやな気持ちがこみ上げてきて、正気を失いそうになる。氏はこんなことを本気で書いているのだろうか。国政についての個人的意見を天皇に聞いて、どうするのか。・・・(中略)・・・突き詰めれば天皇の言葉通りに国政を進めようと言うことになる。このような言葉は、以前に聞いたことがある。2.26事件の青年将校たちが同じことを言っていた。内田氏の言うことは、青年将校たちが希望した「天皇親裁」と同じではないか」。けだし正当な批判だと私は思う。

沖縄と満洲――被害と加害のはざまで [沖縄・琉球]

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沖縄女性史を考える会編『沖縄と「満洲」――「満洲一般開拓団」の記録』(明石書店、2013年)。少し前、勤務先の学校の図書館から、日本語の本で何かいいものはないかといわれて、推薦したうちの一つがこの本だ。

1936年、満洲国新京(現・長春市)の関東軍司令部は、二十年間に日本から百万戸・五百万人を満洲へ農業移民として送り出す計画を立て、満洲国政府・日本政府に承認させた。この国策に基づき38年、沖縄県は三万戸・十五万人の県民を満洲に移住させて「沖縄分村」を建てる構想を立案し、40年に「満洲開拓農民先遣隊」として68名が黒竜江省に入植。以後多くの沖縄の農民男女が「開拓団」として海を渡った。

開拓農民に与えられた土地の多くは、無人の荒野を開墾したものではない。もともとそこで暮らしていた漢族・満州族・朝鮮族などの地元農民を、「匪情悪化」を口実に有無を言わさず暴力で強制移住させ、その農地を「無人地帯」として満洲開拓公社が安く買いたたき、そこに日本の開拓民を移住させたのだ。それは、日本軍の暴力を背景とする帝国主義侵略政策以外の何ものでもない。

1920年代半ばから30年代にかけて、沖縄は不況のどん底にあえいでいた。琉球処分後に日本資本主義に強制的に組み込まれ、サトウキビという単一商品作物の生産を国策として割り当てられていた沖縄。その植民地的な経済構造はきわめて脆弱で、昭和恐慌そして世界恐慌という荒波の前にひとたまりもなかった。

当時の農民の主要な食物だった甘藷すら不作に陥った年には、山野に自生するソテツを毒抜きして食べて飢えを凌ぐ惨状が、各地にみられた(ソテツ地獄)。食べるために沖縄から多くの人びとが海を渡り、日本本土そして海外へと移住していった。1940年、沖縄県民の海外在留率が9.97%と、他府県に比べて圧倒的に高い比率を示すのはそのためだ。

こうした状況で、満洲移民という国策に沖縄県が積極的に応じたのは必然だった。県の募集に応じた沖縄の農民たちは続々と満洲に渡った。彼らは一面、日本帝国の植民地的な沖縄政策の犠牲者であった。しかし他面では、沖縄の人びともまた大日本帝国臣民として、満洲侵略の尖兵としての役割を結果的に担ったことは否めない。とりわけ、土地を奪われた中国東北農民から見れば、日本本土農民も沖縄農民も、侵略者の手先である「日本鬼子」として何の変わりもない。

1945年8月の日本敗戦・満洲国崩壊後、沖縄の女性や子どもたちも多くが置き去りにされ、ソ連軍侵攻の混乱の中で命を落とした人や、酷寒の中国東北の地に残留孤児・残留婦人として取り残された人が少なくない。なお、サイパン島など南洋群島に移住した沖縄人たちも、多くが戦火に巻き込まれて悲惨な最期をとげたことは周知のとおりだ。沖縄戦に巻き込まれた県民とおなじように、海外に移住した同胞たちの多くもきびしい運命に直面せざるを得なかった。

私の父方の祖父母はともにヤンバル出身の生粋の沖縄人だった。ソテツ地獄下の沖縄を去ってヤマトに渡った祖父はやがて日本帝国の官吏となり、天皇の勅任官として台湾の某地方に派遣され、植民地統治の一端を担った。その間私の父も台湾で生まれている。アジア・太平洋戦争の末期、米軍が台湾に上陸していたら、私はこの世に存在しなかった可能性が高い。しかし米軍は台湾をスルーして沖縄に上陸したため、父の一家は生き延びることができたのだ。

その結果、私もこうしてこの世に存在している。沖縄人でありながら、日本帝国の植民地官僚として、沖縄戦を経験せずに無傷で生き延びた者の子孫である私が、沖縄そしてアジアに対しどのように向かい合えばいいのか、今も悩みは深い。

その私が、かつて満洲国の首都新京と呼ばれ、日本帝国の植民地経営の中心地だった長春にやって来て、はや四年目。七十数年前、沖縄の多くの貧しい農民たちがこの都市を通過し、はかない希望を抱きつつ、現実には大陸侵略の尖兵として、酷寒の満洲各地に散っていった。零下20度を下回る夜、そのことをこの地で想うとき、いたたまれない気分になる。日本帝国主義の犠牲者でもあり侵略者でもあった沖縄の人びとが、満洲の地にどのような経緯で移住し、いかに悲劇的な逃避行で去って行ったのか、中国東北の人びととともに考えたい。

元旦の長春 [中国東北・雑記]

零下22度まで冷え込んだ元旦の長春。清冽な大気で鬱屈した気分を一新しようと、完全結氷した伊通河の上を歩きました。吹きすさぶ寒風が容赦なく、露出した顔の皮膚を刺します。
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満州語のyitu ula(波濤逆巻く大河の意)に由来する伊通河。この流れを下れば、やがて松花江に合流してハルビン、ジャムスを経、さらにロシア国境でアムール川に合し、ハバロフスク地方のオホーツク海へと注ぎます。東北大平原からシベリア、ロシア極東へと続く氷雪の道。

凍てつく大地を覆うこの猛烈な寒気は、遠く海を越えて、今ちょうど日本列島の各地に大雪をもたらしているとのこと。ささいな人為的国境など、大自然は軽々と越えてゆきます。

中国では旧暦の旧正月(春節)が盛大に祝われるため、それに比べると新暦の元旦は静かな祝日です。休みはふつう元旦の一日のみですが、今年は1月2日(金)と1月4日(日)を入れ替え、3日(土)をあわせて三連休が設定されています。寒空の下、行商人たちは今日も稼ぎに精を出しています。

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冬の風物詩ビンタンフールー(冰糖葫蘆)売りと焼き芋屋

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乾物売り。がちがちに凍った柿も並んでいます。

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魚売り。外気は天然の冷凍庫。日本では見慣れない湖水の魚が多いです。

来たる2015年があらゆる民衆にとって希望に満ちた年となることを、心から願います。

長春だより

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