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『朝日』の慰安婦関連記事について [東アジア・近代史]

『朝日新聞』の過去の慰安婦報道について検証する「第三者委員会」の報告書が出されたのは今月22日。その翌日、「記事を訂正、おわびしご説明します」という記事が出た。それを受けてか、『朝日』は「慰安婦問題を多角的に考えていくため、国内外の識者に様々な視点で語っていただく企画を始めます」ということで、慰安婦問題をめぐる企画記事を28日から掲載しはじめている。その「識者」のトップバッターとして起用されたのが、「アジア女性基金」の理事を務めた大沼保昭氏だ(「(慰安婦問題を考える)アジア女性基金の検証を 明治大特任教授・大沼保昭さん」『朝日新聞』12/28)。

この人選および記事の内容とも、慰安婦問題に対する『朝日』の姿勢に対し、改めて疑念を抱かせるものだ。

そもそも「アジア女性基金(女性のためのアジア平和国民基金)」とは何か。日本の朝鮮植民地支配に対する国家賠償問題は、65年の日韓基本条約で韓国の請求権が放棄されたので解決済みだ、というのが日本政府の主張である。しかし1990年代になると、民主化の始まった韓国で、それまで沈黙を強いられてきた多くの元慰安婦の方々が日本政府の責任を追及する声を上げ始め、これを無視し続ける日本政府の非人道性に対して国際的な非難が高まろうとしていた。そうした非難をかわすため、日本政府は93年、「軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた」慰安婦問題について「お詫びと反省」を述べたいわゆる「河野談話」を発し、談話の認識に基づいて元慰安婦に対する「償い」事業を95年から始めた。これが「アジア女性基金」だ。

この「アジア女性基金」の活動について、それに携わった大沼氏は上の『朝日』記事で次のように説明している。「日本政府と基金はその後、歴代政権の下で、総理のおわびの手紙、国民の拠金からの償い金200万円、国費から医療福祉支援金120万~300万円を364人の元慰安婦の方々に手渡し、さらに現代の女性の人権問題にも取り組んできた」と。

このように、「アジア女性基金」の元慰安婦の方々に対する「償い」活動が、日本国家を主体とする公的な謝罪と賠償ではなくて、もっぱら民間からの寄付による基金方式をとったのはなぜか?そこに、植民地支配に対する国家責任は65年の日韓条約で解決済みとする日本政府の立場を守る意図があったのは、疑いないところだ。

国庫からの支出は「医療福祉支援金」とし、賠償ならぬ「償い金」を民間からの寄付としたところに、この事業が日本国家の公的な賠償でないことを示す政府の意図がはっきりと読み取れる。また、総理の「おわびの手紙」は、「拝啓 このたび、政府と国民が協力して進めている「女性のためのアジア平和国民基金」を通じ、元従軍慰安婦の方々へのわが国の国民的な償いが行われるに際し、私の気持ちを表明させていただきます。…(中略)…心からおわびと反省の気持ちを申し上げます。」とあり、この「おわびと反省」があくまで総理個人の「気持ち」にすぎず、日本国家の公的な謝罪ではないことも、ここに明確に示されている。

このように、どこかの官僚がこねくりまわしたに違いない周到なやり方をとった「アジア女性基金」の本質は、日本国家の公的な謝罪・賠償という形を避けつつ、慰安婦をめぐる人道問題に対する国際社会の非難を回避するための姑息策、というにあった。韓国政府認定の207人の元慰安婦の方々の中で、この「償い金」を受け取ったのは61人にすぎず、多数がこれを拒否したことに、この事業の性格が現れている。こうした無残な結果は、「償い金」事業を行う前からある程度予測できたことで、もし事業の中心者たちがすべての元慰安婦の方々の速やかな人権回復を第一の目的としていたのであれば、受け取り拒否の続出が予想される民間寄付(非国家賠償)という形を採用したはずがない。事業の中心者たちが日本政府の立場の維持に腐心して姑息策をとったことで、多くの慰安婦の方々の人権はついに回復されることなく、経済的困窮のなかに放置され続けるという、最悪の結果がもたらされたのだ。

もちろん私は、「アジア女性基金」事業において、主観的には人道目的の善意からこれに熱心に携わった人たちが数多くいることを否定しない。しかし、事業の無残な失敗が明らかになったからには、その結果責任を真摯に反省したうえで、元慰安婦の方々の真の人権回復を早急に実現するための新たな取り組みに尽力してしかるべきだろう。「過てば則ち改むるに憚ることなかれ」、「過ちて改めざる、これを過ちという」(論語)。

だが、大沼氏をはじめ「アジア女性基金」に深く関与した人たちの多くは、この明白な過ちを改めないばかりか、自己弁明にこれつとめ、あまつさえ批判者を誹謗、攻撃し続けている。例えば大沼氏は上の『朝日』記事で、「基金」について「日本の政府と国民が責任を果たすぎりぎりの施策だった」と釈明し、さらに次のように発言している。

---------------------(引用はじめ)
韓国の支援団体とメディアは、罪を認めない日本から「慰労金」を受け取れば被害者は公娼になるとまで主張してこの償いを一顧だにせず、逆に日本批判を強めた。これは日本国民の深い失望を招き、日本の「嫌韓」「右傾化」を招く大きな要因となった。 また日韓のメディアは償い金を「見舞金」、「慰労金」と報じ、欧米メディアは「慰安婦」を「性奴隷」と表記するなど、不正確で偏った報道をくりかえした。日本政府はこうした報道に十分反論せず、基金による償い活動の広報を怠った。これに加えて第1次安倍政権下での政治家の不適切な発言、日本の一部の排外主義的な反発や口汚い嫌韓言説が諸国で報じられたため、「性奴隷制度を反省しない日本」というイメージが国際社会に広がってしまった。
---------------------(引用おわり)

このように氏は、「アジア女性基金」の失敗の責任ばかりか、日本の「右傾化」の責任までも、「韓国の支援団体とメディア」になすりつけて恥じようとしない。こうした極端に独善的な言説を『朝日』が「慰安婦問題を考える」企画の第1回に掲載したことは、意味深長だ。

さらに大沼氏は、欧米メディアが「慰安婦」を「性奴隷」と表記することを、「不正確で偏った報道」だとしているが、旧日本軍の慰安婦制度が「戦時性奴隷制」であったことは今や国際社会の常識だ(例えば2014年8月6日付国連ニュース )。大沼氏には、国連人権高等弁務官事務所や国連人種差別撤廃委員会に対して「偏向だ」と抗議に出向くことを、ぜひお勧めしたい。

慰安婦問題をはじめとする、日本の東アジア諸国に対する戦後責任の問題がここまでこじれにこじれた元凶の一つが、「アジア女性基金」という姑息な事業であることは、確かだと思う。この事業には、主観的な善意から多くの「進歩的」(とみなされていた)知識人・文化人が参加したが、その無残な失敗に対する当事者の真摯な自己反省は少なく、むしろ聞こえてくるのは自己弁明(例えば、和田春樹「慰安婦問題―現在の争点と打開への道」『世界』2014年9月号)や、大沼氏のような逆ギレ的な八つ当たり攻撃ばかりだ。自己正当化に汲々とする彼らの不遜な態度が、『朝日』『世界』など「進歩」的(?)メディアを今も毒し続けている。事実ここから、「未来志向」を装ういかがわしい「中立」的言論(例えば高橋源一郎氏)や、当事者性を欠いた「和解」論(朴裕河氏など)が、続々と現れているのだ。

慰安婦問題をめぐる真の論点は、この深刻な人権侵害に対して日本政府は国家賠償と公的な謝罪を行い、早急に元慰安婦の方々の人権回復に努めなければならないという主張と、賠償請求は1965年の日韓基本条約で解決済みであるとする日本政府の立場との、根本的対立にある。この論点からすると、最近の『産経』『読売』と『朝日』とのバトルは茶番劇でしかない。実際は、『産経』から『朝日』に至るまで、上の日本政府の立場に立脚した「国民的」合意の醸成に努めているのが現状なのだ。岡本行夫氏や北岡伸一氏らをメンバーとする慰安婦報道検証の「第三者委員会」の設置および報告書の公表、それに基づく「おわび」、といった『朝日』の対応は、そうした「国民的」合意に参加するため日本政府・安部政権に向けて出した「詫び証文」のように映る。

日本国の戦後責任問題をめぐるこうした道筋を掃き清めたのが、「アジア女性基金」であった。日本国家が過去の侵略責任を真に清算し、日本の人々がアジアの民衆とともに新しい平和的秩序を築いてゆく道は、こうして永遠に閉ざされてゆくのだろうか?過去に自分の犯した過ちに頬かむりしたまま、口先で「未来志向」を唱えたところで、誰からも信頼や尊敬を得ることはできない。このままでは、日本社会の前途にたちこめる暗雲も永遠に晴れることはないだろう。

韓国「統合進歩党」解散命令をめぐる雑感――「秘密保護法」施行の危険 [日本・近代史]

12月19日、韓国の統合進歩党が、国家権力によって強制的に解散させられたというニュース。韓国において「憲政史上初の政党解散審判の結果であり、国家権力が代議制民主政治の核心である政党を強制的になくした政治史的“事変”だ」という(「統合進歩党強制解散…韓国憲法裁判所“8対1”決定」『ハンギョレ新聞』日本語版12/19 )。

隣国でのこうした強権発動について、日本の人は対岸の火事視しがちかもしれない。だが実際は、日本の憲政史上、「秩序に有害」とみなされた政党が国家権力によって強制的に解散させられた例は数多くある。

集会・結社を規制する日本の法令は、国会開設を求めて自由民権運動が高揚していた1880年、これを弾圧するために制定された「集会条例」に遡る。この条例により、政談演説会や政治結社は事前に警察署に届け出て許可を受けねばならなくなった。さらに82年の改正によって、集会や結社に対して内務卿が「治安に妨害ありと認むるとき」はこれを禁止することができ、禁止命令に従わない者や秘密に結社する者は罰金もしくは軽禁錮に処されることになった(第十八条)。

その直後に改正集会条例の適用を受けたのが「東洋社会党」だ。82年に長崎県で結成されたこの政党は、「我党は平等を主義となす」「我党は社会公衆の最大福利を以て目的となす」などの綱領を掲げたが、まもなく「治安に妨害あり」と認められて結社禁止命令を受け、命令に従わなかったという口実で代表者の樽井藤吉が一年の軽禁錮に処された。

89年に天皇睦仁の名で発布された大日本帝国憲法は、「日本臣民」の権利として「言論・著作・印行・集会及結社の自由」を定めたが、しかし「法律の範囲内に於て」という但し書きが付された(第二十九条)。この結社の自由の「範囲」を定めた法律が、集会条例を受け継いだ「集会及政社法」(1890年7月制定)だ。集会・結社の事前認可制は届け出制に緩和されたが、内務大臣の結社禁止権は残された。

さらに、初期労働運動や足尾鉱毒被害民運動など社会運動が高揚した1900年、これらを取り締まる新しい法律として、集会及政社法を強化した「治安警察法」が制定された。その第八条で、「安寧秩序を保持する為必要なる場合」に内務大臣は結社を禁止できるとした。
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JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A03020436000(第1・5画像)、御署名原本・明治三十三年・法律第三十六号・治安警察法制定集会及政社法廃止(国立公文書館)

この条項が最初に適用されたのが、「社会民主党」だ。人類同胞、軍備の全廃、階級制度の全廃、政治的権利の平等、などを綱領に掲げて1901年5月に片山潜・木下尚江・幸徳秋水・安部磯雄らの結成した社会民主党は、結成から二日後「安寧秩序に妨害あり」とみなされて内務大臣により結社禁止命令が出された。それを受けて翌月、普通選挙と社会・労働政策という穏健な綱領で出発した「社会平民党」も即日禁止された。

日露戦後の1906年2月、「国法の範囲内に於て社会主義を主張す」ることを掲げて堺利彦らが結成した「日本社会党」は、日本ではじめて持続的に活動できた社会主義政党だが、結成から一年後の07年2月、「安寧秩序を保持する為」治安警察法第八条により結社禁止。さらに同年6月、「憲法の範囲内に於て社会主義を主張し労働者の当然享有すべき権利の拡張を計るを以て目的とす」るとした片山潜らの「日本社会平民党」も、わずか二日後に禁止された。

1910年の大逆事件によって長い「冬の時代」に入った日本の社会運動は、第一次大戦後にふたたび高揚し、20年12月、各種の社会主義者・アナーキストの大同団結組織として「日本社会主義同盟」が結成されたが、これも半年後に治安警察法第八条によって結社禁止された。

普通選挙法と同時に1925年制定された「治安維持法」は、「国体の変革」「私有財産制度の否認」を目的とする結社の組織・加入・支援について、厳罰をもって禁止した。この新法によって政治運動はさらに大きな制約をこうむったが、従来の治安警察法もあいかわらず威力を発揮しつづけている。1925年の12月に浅沼稲次郎を書記長として創設された「農民労働党」は治安警察法により即日禁止された。翌年結成された無産政党「労働農民党」は、28年2月に普通選挙制下の最初の総選挙で山本宣治らを当選させたが、4月に同法によって結社禁止に処せられている。

このように旧憲法下では、「結社の自由」が保障されていたにもかかわらず、政党がくりかえし結社禁止の憂き目にあわされてきた。それは、旧憲法の「結社の自由」なるものが「法律の範囲内」という留保のもとでのみ認められていたにすぎないからだ。

治安警察法や治安維持法など日本の憲政を形骸化させた悪法は、1945年8月の日本の敗戦後もなおしばらく生き続け、9月には治安維持法違反で投獄されていた三木清が獄死している。その後GHQの指令によって10月に治安維持法、11月に治安警察法がようやく廃止された。これらの法律の廃止が日本国民みずからの手によってではなく、占領軍の手でなされたことは記憶しておいてよい。

1947年施行の現行「日本国憲法」の第二十一条では、「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」とされ、人権を制約する法律の留保は排除された。その後52年に制定された「破壊活動防止法」(破防法)で、「暴力主義的破壊活動」を行った団体に対し公安審査委員会が解散の指定ができると定められた。が、破防法の団体活動規制処分の規定が適用された事例は今のところない(オウム真理教に対して適用が検討されたものの、結局見送られた)。現憲法による歯止めが効いているのだ。

だが、自民党が2012年に決定した「日本国憲法改正草案」では、憲法第二十一条に「前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない」という制約を付けている。もしこうした「改正」がなされれば、先にみたような旧憲法下の圧制が再現されうる危険がある。

すでに安倍政権下では、昨年末に特定秘密保護法が制定され、今月から施行されている。防衛省では従来の「防衛秘密」4万5千件が「特定秘密」に自動移行したとみられ、外務省も諜報・日米安保・朝鮮半島・東シナ海など35件を特定秘密に指定した。内閣官房は49件、公安調査庁は10件をそれぞれ指定した。内容は「外国政府との協力関係」「人的情報源を通じて収集・分析した情報」など。警察庁は「テロリズム関係」などの6項目で18件を指定した。他方、法施行と同時に設置されるはずだった国会のチェック機関「情報監視審査会」は、衆参両院とも設置されていない。(「「日米安保」「朝鮮半島」特定秘密指定始まる」『東京新聞』12/27)。

秘密保護法では、公務員や防衛産業の従事者が秘密を外部に漏らせば十年以下の懲役、それ以外の人が秘密を取得しても十年以下の懲役、秘密の漏洩や取得を共謀・教唆・扇動した場合は五年以下の懲役が科される。しかも、漏洩や取得が罰せられる「秘密」が具体的に何であるのか、明らかにされることもない。旧憲法下の治安警察法が、曖昧な「安寧秩序の保持」を名目に猛威を振るったことが想起される。「北朝鮮」を名目に強権が発動される韓国の今の事態は、日本社会にとって決して対岸の火事ではない。

治安維持法や治安警察法の廃止が、国民の手によってではなく、占領軍のいわば「恩賜」によってなされたことは、前述したとおり。秘密保護法が戦前の再来といわれてもピンとこない人が多いのも、戦後長年の間、「恩賜」の自由の上にあぐらをかいてきたことのつけかもしれない。

中国の地域医療に尽くして70年――元日本兵医師の生涯 [日中関係]

2010年12月1日、山東省済南で一人の老人が息を引き取った。山崎宏さん、享年102歳。山崎さんはこの地で七十年近く地域医療に尽くしてきた日本人医師だ。地域の人たちは親しみをこめて彼を「山大夫」と呼ぶ。亡くなった翌朝、山崎さんの小さな家には親族や元患者などが集まり、故人を偲んだ。
http://news.iqilu.com/shandong/yaowen/2010/1202/372356.shtml

中国や香港のメディアの報道によれば、山崎さんの人生行路は次のとおり。

1908年岡山県真庭市生まれ。医業を志すも、1937年7月盧溝橋事件が起き、日中戦争が勃発。まもなく山崎さんも召集され、第10師団歩兵第33旅団に従軍、同年8月天津郊外の塘沽に上陸した。同旅団は天津南方の馬廠付近で中国国民革命軍第29軍と激しい交戦を繰り広げた。山崎さんは後方勤務だったが、前線から送られてくる多数の負傷兵を見るうちに、戦争に対する疑問が頭をもたげた。

11月、部隊が河南省鄭州付近に駐屯していたとき、山崎さんは日本兵が中国の女性から2、3歳の男の子を奪い取って殺そうとしているのを見た。このとき逃亡を決意したという。ある日の晩、歩哨が居眠りしている隙に軍営から逃走。殺したくない、殺されたくない一心だった。飢えつつ放浪する山崎さんに対し、中国民衆は彼の着る軍服から日本兵だと分かっていたが、それでも食べ物を与えてくれた。また疲労困憊してある農家の門前で倒れたとき、農民夫婦は山崎さんを助け、衣服や食べ物まで与えて送り出してくれたという。

山崎さんは日本軍占領下の済南に着き、名を変えて鉄道局の倉庫番の仕事にありついた。ある日上司は、倉庫から物を盗む中国人を捕えて撃ち殺すよう、山崎さんに命じた。しかし山崎さんは、貧困ゆえの盗みだと考え、寝たふりをして盗まれるに任せた。かつて軍営を脱走したときに中国民衆から受けた衣食の恩返しのつもりだったという。

まもなく山崎さんは、河北唐山から済南に逃げてきた中国人女性を妻に娶った。1945年の日本降伏後、山崎さんは故国の家族に自分のことを知らせた。とっくに戦死したものと思っていた家族は山崎さんの生存を知って狂喜したという。兄が帰国を勧めてきたが、しかし山崎さんは断った。「贖罪のためにここに留まり、恩返しせねばならない」と。そして日本で学んだ医学知識を生かし、線路脇に小さな医院開業した。最初はこの「鬼子大夫」のところに来る患者は少なかったが、貧乏人は無料で診察したので人気を得、しだいに患者も増えてきた。

日中国交正常化の後、日本の大使館員が山崎さんのもとを訪れ、質問した。「今でも中国人はあなたを「鬼子」と呼んでいると聞きますが、あなたはなぜここに留まっているのですか?」山崎さんは次のように答えた。「彼らが恨んでいるのは、あの当時の日本人です。まったくそのとおりなのだから、私はここに留まり日本人を代表して贖罪しなければならないのです。」その後日本政府から毎年送られてくる年金を、山崎さんはほとんどすべて中国の人びとのために寄付した。

土地の人は言う。小さい時病気をするといつも「山大夫」に診てもらった、今では子どもたちも山大夫に診てもらっている、と。

http://qnck.cyol.com/content/2009-11/24/content_2951970.htm
http://v.ifeng.com/documentary/special/riben/#2daaa7a6-4408-4d5e-a958-3681c069098d


山崎さんの遺体は、生前の本人の意志により献体に出されることになった。父親を送り出した後、娘の山雍蘊さんは参列者に向かって深くお辞儀をし、中国人民に対して、父を寛大にも許してくれたことを父に代わって感謝します、と述べた。

タグ:日中関係

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