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「明治日本の社会的キリスト教(1)(2)」『キリスト教文化』 [日本・近代史]

雑誌『キリスト教文化』(かんよう出版、2014年春号)が、中国にいる私の手元にも届きました。

今号の特集は「戦争とキリスト教」と題し、興味深い論考が数多くあります(池住義憲「「戦争準備」行為とキリスト者―どのようにプロテスト(抵抗)するか、できるのか」、山下明子「日本軍性奴隷制度の問題とキリスト教」、柴崎聰「戦争と戦後日本のキリスト教文学」、一色哲「闘いのなかのキリスト教 ─ 沖縄の戦後から」、金井創「沖縄―貴い隅の石」、梁在成「原発と戦争、そしてキリスト教信仰」、金興洙「一九五三年停戦協定、戦後の韓国教会」、尹善子「韓国の従軍聖職者活動の昨日、今日、そして明日」、河東基「良心的兵役拒否、僕の内側でこだまするイエスの声」)。

私も本誌で「明治日本の社会的キリスト教―地上における〈神の国〉を求めて」と題する論考を、前号に続いて連載しました。なお私自身はキリスト教の信仰をもっておりませんが、近現代の日本(および東アジア)においてキリスト教の思想と運動がきわめて重要な社会的役割を果たしてきたことを深く感じています。このたび執筆の機会を与えてくださったかんよう出版に感謝します。

かんよう出版HP
http://kanyoushuppan.com/

かんよう出版FBページ
https://www.facebook.com/kanyoushuppan

私は、上に紹介した本誌の特集「戦争とキリスト教」の各文章を読み、キリスト者の方々が今まさに大事な動きをしていることを知って感銘を受けました。そうした現在まで続くキリスト教思想と運動の社会的な役割を、十九世紀末から二十世紀初頭(いわゆる明治時代後期)に遡って考察することが、拙稿の目的といえます。その課題を述べた部分を以下に引用します。

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社会問題に取り組む諸団体や、「社会主義」「民主主義」「平和主義」という当時からすればきわめてラディカルな理念を掲げた政党が、多くのクリスチャンによって設立されたという事実は、明治日本のキリスト教界の特異な一面を物語っている。当時のキリスト教界では、いわゆる「社会的キリスト教」(social Christianity)が一定の影響力をもっていた。十九世紀後半のアメリカ合衆国において発展し、次いで日本でも受容されたその教説は、救済の地上性を強調し、社会問題の解決を教会の責務と考える点に、顕著な特徴があった。

明治期のキリスト教史において、社会的キリスト教が時代を画する重要な役割を担ったことは疑いえない事実である。ところが、それを主題とする研究はほとんど存在せず、キリスト教史の中に明確な位置づけを与えられていない。そこで、これまで不当に軽視されてきた明治期の社会的キリスト教について その思想と運動のあり方を明らかにすることを本稿の課題としたい。
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(大田英昭「明治日本の社会的キリスト教(1)」『キリスト教文化』2013年秋号)

明治時代の「社会的キリスト教」のあり方について、今号では特に片山潜(1859~1933年)に即して考察しました。片山潜は1884年二十五歳でアメリカに渡り、労働生活を送るなかでキリスト教に入信、聖職者を目指して神学校で学びます。当時のアメリカでは、産業社会の急激な発展に伴って激烈な労働争議や都市の貧困が深刻化していました。こうした社会問題にキリスト教会として立ち向かったのがアメリカの「社会的キリスト教」で、片山はその深い影響を受けて1896年、帰国しました。

片山は帰国後、東京でセツルメント運動を起こし、また日本最初の労働組合運動の指導者として活躍、さらに社会主義運動・民主主義運動へと進み、1901年に幸徳秋水・木下尚江・安部磯雄らとともに「社会民主党」を結成しました。こうした彼の行動を深いところで支えていたのが、キリスト教の信仰です。とくに労働運動において片山が、中国人をはじめとする外国人労働者との連帯を強く訴えた背景には、彼がアメリカでの労働と信仰の日々のなかで体得した人類同胞思想がありました。

その後「大逆事件」に代表される日本政府の凶暴な弾圧により、片山は1914年、アメリカに亡命することを余儀なくされます。さらに1921年、彼はロシア革命直後のソヴィエト・ロシアに渡り、やがてコミンテルンの幹部となって国際共産主義運動に参加し、モスクワで最期を迎えました。こうした晩年の経歴から、片山におけるキリスト教思想の意義は軽視されがちですが、しかしその思想は最後まで失われることなく彼の血肉になっていたと思います。今回の論考を、私は次のように結びました。

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(前略)
社会民主党の創設者として名を連ねた六名のうち五名がクリスチャンだったし、日露戦争に際して日本の社会主義者が反戦平和を訴え続けた背景としても、社会的キリスト教の思想的影響は無視できない。1904年8月にアムステルダムで開催された第二インターナショナル大会で、片山とG・プレハーノフ(Georgi Plekhanov, 1856‐1918年)とが、戦争に反対する日露両国の民衆を代表して壇上で握手した際に、片山の念頭にあったのは、社会主義のインターナショナリズムと同時に、キリスト教の人類同胞主義だったのではあるまいか。

さらに七年を経た1911年秋、片山はイエスの「天国の福音」について次のように述べている。

「〔耶蘇の〕山上の垂訓は、実に彼の社会問題の解決法、彼の建設せんとする理想の天国、即ち神州の憲法である。彼が運動を始むるや、非常なる熱心、勇気、期望をもって居たのである。その成功に対する信仰は偉大なる者であつた。「天国は近けり、悔い改めよ」とは、彼の民衆に対する警句であった。彼は地上に天国を建設することが出来ると確信せる者の如くである。その識見、威厳は壮烈なる者であった。…(中略)…耶蘇は無垢の青年で社会に出た。刻苦艱難奮闘の結果、正義の人となったのである。理想の大人格となったのである。我が唯一の師表、ユニークの救世主となったのである。…(中略)…耶蘇が今日人類社会に勢力があるのは、その我々に残したる経験である。その経験、その誠実偉大なる信仰に依って、我々をして神に達するの道を教えたのにある。実に彼自ら神の子たる本分を尽し、我々にも神の子たり、其本分を全うする道を教えて呉れたのである。これ予の信ずる耶蘇である。実に救主と尊敬する基督である。」(「耶蘇は如何にして誘惑に勝ちたる乎」『東洋時論』1911年11月)

(中略)

制度としてのキリスト教会から片山が次第に遠ざかりつつあったのは事実であろう。しかしそれは、信仰が冷却したというよりも、むしろ、上の引用の如き意味で「大人格」「救世主」とされるイエスの福音に向けて、彼の信仰がいっそう純化したことを意味するのではなかろうか。片山の信仰の行方、ないし彼の「棄教」をめぐる問題は、キリスト教の本質とは何か、という困難な問いを含んでいる。この問題にここで答えを出すだけの準備が私にはない。しかし、ただ一つ言えることは、共産主義インターナショナル(コミンテルン)の運動に加わった片山が一九二一年ソヴィエト・ロシアに渡った後も、彼が若き日にアメリカで得た人類同胞主義は、最期の日まで微動だにしなかったに違いない、ということである。
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(大田英昭「明治日本の社会的キリスト教(2)」『キリスト教文化』2014年春号)

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「昭和の日」雑感 [日本・近代史]

海外に住んでいるので忘れていたが、昨日は「昭和の日」という休日であったことに気付いた。裕仁の誕生日だ。89年に本人が死去した後「みどりの日」と改称、さらに2005年小泉内閣のときに祝日法が改正され、2007年から施行されて現在の名称となった。なぜこの日を今わざわざ祝わねばならないのか、根拠は全く不明だ。

裕仁の祖父である睦仁(明治天皇)の誕生日(11月3日)は、死後から15年を経て「明治節」として1927年に復活し、「臣民ト共ニ永ク天皇ノ遺徳ヲ仰キ明治ノ昭代ヲ追憶」することがうたわれた(「明治節制定ノ詔書」)。戦後は1946年のこの日に新憲法が公布され、名義上それを祝う「文化の日」として48年の祝日法で定められ、今日に至っている。かつて大日本帝国憲法(旧憲法)が紀元節(2月11日。実在しない神武天皇の即位日としてでっちあげられた。現・建国記念の日)に発布されたのと同じように、天皇主義者の吉田茂が新憲法の公布日をわざと明治節に合わせたのかもしれない。

他方、裕仁の父・嘉仁(大正天皇)の誕生日(8月31日)は、祝日として残されることがなかった。なぜ、ひとり裕仁の誕生日だけが、新憲法公布を記念する「文化の日」のような名目すらないのに、露骨にも「昭和の日」の名で祝日として残されているのか?改正祝日法ではその趣旨について、「激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす」と説明されている。が、祝日法改正による改名を推進した神社本庁のHPにあるように、「昭和天皇の御事蹟を顧みる」ことを国民に強要することが、支配層の本音だろう。1927年に明治節が制定されたとき、「臣民ト共ニ永ク天皇ノ遺徳ヲ仰キ明治ノ昭代ヲ追憶」することがうたわれたのと、何と似通っていることか。
http://www.jinjahoncho.or.jp/column/000020.html (神社本庁・コラム「昭和の日」)

だがそもそも、裕仁の「御事蹟」とは何か?「昭和の時代」なるものを「顧みる」のであれば、彼が大日本帝国憲法の下で、大元帥として陸海軍を統帥する大権を唯ひとり有していた二十年間に、次々と実施された日本の侵略戦争によって国内外の膨大な人びとが犠牲にされたこと対する彼の責任をこそ、なによりもまず「顧みる」必要がある。それをせずに彼の「御事績」を寿ぐことがいかに欺瞞に満ちているかは、言うまでもない。

「昭和の日」および現行の天皇誕生日のほかにも、現代日本の祝日には天皇制に由来するものが少なくない。建国記念の日(2月11日、戦前の祝日「紀元節」)、春分の日(3月21日頃、戦前の祭日「春季皇霊祭」)、秋分の日(9月23日頃、戦前の祭日「秋季皇霊祭」)、文化の日(11月3日、戦前の祝日「明治節」)、勤労感謝の日(11月23日、戦前の祭日「新嘗祭」)。なお戦前の祝祭日ではないが、1996年から施行された海の日(7月20日、2003年から7月第3月曜日)の起源は、1876年に睦仁(明治天皇)が汽船「明治丸」で北海道・東北地方を巡り7月20日に横浜に帰着したことを記念して、1941年(!)に「海の記念日」とされたことにある。

つまり、現行の15の祝日のうち8つまでが、天皇制とつながりをもっていることになる。人間の生活と労働のあり方を決定する暦において、日本人はいまだに天皇制の時間枠組みに(おそらくほとんどの人は無自覚に)支配され続けている。そしてそれは、戦後日本の支配層が自覚的に行っていることで、21世紀に入りいっそう強化されているのだ。

なお少し前から、成人の日や敬老の日、体育の日などいくつかの祝日は、労働者の連休を増やすため月曜日に移動されている(ハッピーマンデー制度)。しかし、天皇の誕生日に由来する祝日(昭和の日・文化の日・天皇誕生日)と、戦前の祝祭日に由来し天皇制ときわめて深いつながりをもつ4つの祝日(建国記念の日・春分の日・秋分の日・勤労感謝の日)については、決して動かされることがない。とりわけ春季皇霊祭(春分)・秋季皇霊祭(秋分)・新嘗祭(勤労感謝の日)の三つは、皇居宮中三殿で天皇による祭祀が行われる「大祭日」で、首相・衆参両院議長・最高裁長官の「三権の長」もこれにしばしば出席してきた。

支配層がこれらの日付を決して動かそうとしないのは、天皇制と宮中祭祀にまつわるそうした理由がある。「天皇が下々の安泰のために皇祖皇宗(歴代天皇ら自分の祖先神)や天神地祇を祀るありがたい日」というわけだ。天皇制とその「万世一系」神話および祭祀は、日本の支配層が今も国民の統合と支配の正統性根拠として利用し続けている。憲法で定められているはずの政教分離原則が、この国で果たしてどこまで貫徹しているのか、実に疑わしい。

明治神宮の「祭神」をめぐる雑感――皇族の呼称・追号 [日本・近代史]

4月24日、オバマ大統領が明治神宮を参拝した。この参拝自体、東アジアの国際関係や日本の政教分離原則をめぐりいろいろな問題をはらんでいると思うが、今は措く。

明治神宮の祭神は、「明治天皇」と「昭憲皇太后」である。それぞれ、睦仁氏とその正妻の美子氏(睦仁氏にはほかに側室が数名あり)の死後におくられた追号だ。しかし、なぜ後者の追号が「皇太后」なのか?(「大正天皇」嘉仁氏の妻節子氏の追号は「貞明皇后」、「昭和天皇」裕仁氏の妻良子氏の追号は「香淳皇后」)

祭神名として「昭憲皇太后」を採用している明治神宮のHPによれば、1914年に美子氏が死去した際に、当時の宮内大臣が彼女の追号を誤って「皇太后」として上奏し、それがそのまま天皇に裁可されてしまった、とのこと。
http://www.meijijingu.or.jp/qa/gosai/12.html

「皇族身位令」(1910年)によれば、「皇太后」よりも「皇后」の方が、位が上だ。そこで明治神宮奉賛会は、「昭憲皇太后」を「昭憲皇后」と改めるよう宮内大臣宛てに建議したものの、すでに天皇の裁可のあったものは変えられないとの理由から、追号・祭神名の変更は許されなかった。さらに戦後の1963年と67年に、明治神宮崇敬会は再度宮内庁に「皇太后」から「皇后」への追号変更の懇願を出したものの、却下されたという経緯を、明治神宮自身がHP上で説明している。

そもそも元号名を天皇の追号とするようになったのは、「一世一元」制が採用された明治以降のこと。「天皇」号自体は7世紀末ごろに成立したとみる説が有力で(その前は「大王(おおきみ)」号)、漢風諡号(持統天皇、文武天皇、桓武天皇など)が死後に贈られるようになった。平安朝になると諡号は廃れてゆき、皇居や譲位後の居所、陵地などの地名(嵯峨、醍醐など)が「追号」として用いられ、10世紀半ばからは「天皇」号自体が廃れて、死去した(元)ミカドには「院号」が追号された(冷泉院、一条院、後白河院など)。

長らく途絶えていた「天皇」号が復活するのは、江戸時代後期の1840年に死去した元ミカドに「光格天皇」という漢風諡号が贈られてからのことだ。「明治天皇」以降は諡号ではなく、一世一元の制に基づき元号がそのまま死後に追号されている。なお、約900年間「~院」と追号されていた歴代のミカドたちの歴史的呼称が「~天皇」に全て改められるのは、1925年に政府がそのように決定してからのことにすぎない(藤田覚『幕末の天皇』講談社、1994年)。

歴史上のミカドやその一族の呼称については、上に挙げたような諡号・追号としての「天皇」号・「皇后」号がはらむいろいろな問題がある。現在の皇族の呼称も複雑だ。皇族に姓がないのは周知のことだが、東アジアでは古くから当人の本名(諱〔いみな〕)を主君や親以外の人が呼ぶのはタブーとされてきた慣習がある。この古い慣習が現在も皇室についてのみ、適用されがちなようだ。

「天皇」とか、「皇后」「皇太后」「皇太子」「親王」等々の称号は、法律である皇室典範に定められている。一方、「秋篠宮」などの宮号は、法律上に根拠のない慣習上の(皇室の私的な)名称といえる。皇太子徳仁親王、秋篠宮文仁親王の「浩宮」「礼宮」、皇太子の娘の愛子内親王の「敬宮」等々は、天皇・皇太子の子女のみがもつ称号だ。特に男性皇族については、本名(諱)をなるべく避ける古い慣習に縛られているためか、皇族の人びとの呼称は実にわかりにくいものとなっている。

一方、皇族を指す呼称として、マスメディアが本名(諱〔いみな〕)を用いる例が増えてきた。「雅子さま」「愛子さま」といったものがそれで、本名を呼ぶ場合は「さま」という妙な敬称を付すのが「決まり」になっているようだ。他方、男性皇族については、とりわけ天皇や皇太子の地位にある人たちの呼称として、本名を用いることは注意深く避けられる傾向がある。親や主君以外の者が諱(本名)を呼ぶのは無礼だ、という因習に今も囚われているからではないかと思われる。

こんな因習にマスコミが一律に囚われているのは奇妙なことだ。こうした特別扱いが、皇族に対する人びとの特殊な感情を生み出し、天皇制や皇室制度の存廃についての開かれた議論をタブーとする空気を醸し出していることは、確かだと思う。権力を批判し民主主義を擁護する公器としての報道機関が、こと皇室に関しては、逆に民主的な議論を抑え込む役割を果たしている。現代社会において、明仁氏や徳仁氏の本名を呼ぶのは敬を失する、という感覚自体が異常ではないのか。

歴史上の人名についても、特に近代史にかんして言うと、天皇の地位にあった睦仁・嘉仁・裕仁らの本名をことさらに避けて、「明治天皇」「大正天皇」「昭和天皇」という、彼らの死後に贈られた追号で呼ぶ慣習が残っている(私も自著で「明治天皇」と記した)。だが例えば睦仁の名を避けて明治天皇と呼ぶと、なんとなく神聖不可侵な感じを与え、彼が政治家として実際どのような役割を果たしていたのか客観的に認識することを妨げかねないような気がする。自戒を込めてここに記す。

長春の街角――包丁研ぎ [中国東北・雑記]

よく晴れた日、長春の街角の一コマ。路上の包丁研ぎのおじいさん。すぐ近くの食堂が顧客なのでしょう。シャーッシャーッと耳に心地よい音が響き渡ります。

中国で一般に使われる包丁(菜刀)は、日本で中華包丁と呼ばれる、刃が幅広で四角くごついもので、骨付き肉を断ち切るのに便利です。
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上が日本から持参した包丁、下が菜刀(ステンレス)。

長春のタクシー運転手との会話 [中国東北・雑記]

つい先ほど乗ったタクシーでの会話。

運転手:「お客さんは土地の人ではないですよね。どこからいらっしゃいました?」

私:「外国人です。日本からきました。」

運:「ほう、そうですか!日本語なら少し勉強したことがありますよ。『コンバンハ』(日本語で)。」

私:「お上手ですね。どこで勉強なさいました?」

運:「自分で少し勉強しました。まだまだ下手ですが。」

私:「発音がとてもいいですね。なぜ日本語を?」

運:「特に理由はないですが。たまに日本のお客さんを乗せることもありますよ。」

私:「そうですか。」

運:「長春にきてどのくらいになりますか?」

私:「二年半ほどになります。」

運:「中国の印象はいかがですか?」

私:「人がとても親切ですね。もちろん中国も日本もそれぞれ長所と短所があります。二年半住んで、いろいろ見えてきます。」

運:「最近、中日関係があまりよくないですね。」

私:「確かに。お互いが長短を補い合えればよいのですが。」

運:「お仕事で長春にいらしているのですか?」

私:「はい。○○大学に勤務しています。」

運:「何を教えていますか?」

私:「東アジア、特に日本の近代史です。」

運:「そうですか!中国と日本とでは歴史観が違うでしょう。問題になりませんか?」

私:「確かに国家の歴史観には違いがありますね。しかし私は国家の歴史観を教えているのではなく、自分自身の歴史観を語っています。学生ともよく議論しますが、何の問題もありません。もちろん、私の歴史観は、安倍政権の極右的な歴史観とは全く違います。」

運:「ほう、そうですか。安倍政権は日本ではどうですか?」

私:「支持率は前より下がってきています。特に安倍政権の極右的歴史観については、支持する人は決して多くありません。」

運:「でも聞くところでは、日本の若者は日本がかつて中国で何をしたか、知らない人が増えているそうですね。歴史教科書も改竄されたと聞きますが。」

私:「確かに若者は近代史を知らない人が増えています。特に日本の中国侵略の歴史を知らない子が多いですね。それは私たち日本の大人の責任です。特に私は歴史研究者として、日本と中国との友好を深めるためにも、歴史の事実を伝えてゆかねばならないと思っています。」

運:「(うなずきながら)着きましたよ。『サヨウナラ』(日本語で)。」

私:「ありがとうございました。」

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(長春のタクシー。車体はほとんどがフォルクスワーゲン。初乗り6元(約100円))。

なお私は長春のタクシーで、運転手に聞かれて自分は日本人だと言ったことが数えきれないほどありますが、そのことで運転手や他の乗客(長春のタクシーは相乗りが多い)から何か不愉快な態度を取られたことは、一度もありません。

長春の街中をゆくロバ車 [中国東北・雑記]

街中をゆくロバ車。近郊の農村から物を売り買いにきた帰りでしょうか。長春では今でもロバが現役で、夏になると農作物を満載した荷車を引くロバをしばしば目にします。八車線の幹線道路をとぼとぼ歩くロバ車のすぐ横を、車がびゅんびゅんと通り過ぎてゆきます。道路の真下では、再来年に開通予定の地下鉄の工事が進んでいます。スマホを片手に闊歩する若者たちと、ロバを引く農民夫婦。急激な経済発展の中でさまざまなものが同時に並存している、中国社会の現状を象徴するような風景です。
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中国における二つの靖国報道 [日中関係]

新藤総務相が12日午前に靖国神社を参拝したというニュースは、直ちに中国でも報じられています。新藤氏の靖国参拝について中国中央テレビの夜のニュースは、靖国の春季例大祭がオバマ大統領来日と重なり、日米首脳会談への影響を避けるために前もって参拝したという論評を伝えるのとともに、新藤氏自身がこうした見方を否定したこと、春季例大祭中に再び参拝する可能性があることをも指摘しています。そして、今回の参拝は安倍内閣の歴史問題に対する誤った態度を示し、日本政府に対して厳重な抗議を行ったという中国外交部のスポークスマンの発言を紹介しました。
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さらに注目したいのは、同じ番組の中で、日本市民540人が、昨年末の安倍首相の靖国参拝について、憲法の保障する平和的生存権を侵害したとして、一人当たり一万円(約600人民元)の賠償と、首相の靖国参拝停止を求めて大阪地裁に提訴したというニュースが報道されていることです。訴状の内容として、安倍首相の靖国参拝が東アジアの外交的緊張を高め、人びとの生命や自由を危険にさらしているという日本の民衆の主張を取り上げ、さらに東京でも提訴が予定されていることも伝えています。
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安倍政権の一つ一つの危うい動きが、ただちに中国のメディアで報道されるのと同時に、安倍政権に対抗して平和を求める民衆の声もまた伝えられています。安倍政権の極右イデオロギーが日本社会を決して代表していないことを、行動をもって示す日本市民の動きが、東アジアの平和を創り出してゆくうえで重要な役割を担っていることは間違いありません。
タグ:日中関係

春、到来 [中国東北・雑記]

ここ長春でも20度前後まで気温の上がる日が続き、桜や桃が一斉に開花しました。長い冬も終わり、ようやく春本番です。
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日本の「桜前線」はまだ東北地方南部あたりらしいですね。津軽海峡を越えるのは来月はじめの予想とか。中国東北は冬は猛烈に寒いですが、春が来るのは比較的早く、あっという間に気温がぐんぐんと上昇してゆきます。

長春の韓国料理店と朝鮮族 [中国東北・雑記]

韓国料理店で石焼ビビンバを食べました。22元(約370円)。日本の韓国料理店の石焼ビビンバとは材料や味がやや異なります。近代史の複雑な経緯から、長春市内には多くの朝鮮族の人びとが暮らしており、朝鮮(韓国)料理屋や韓国食材店、雑貨店などが数多くあります。
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長春市内の朝鮮族は、少数民族としては満州族(15.3万人、2012年)に次ぐ人口(5.3万人)を擁しています。吉林省全体の朝鮮族人口は104万人で、うち80万人以上が豆満江(中国名・図們江)を境に北朝鮮と向かい合う延辺朝鮮族自治州に住んでいます。

朝鮮北部から中国東北部(満洲)への朝鮮人移民は、朝鮮の自然災害や飢饉をきっかけに1860・70年代から増え始め、19世紀末に清朝が満洲の封禁政策を撤廃したことで、多くの貧しい朝鮮人農民が豆満江・鴨緑江を越えて沿岸に定住しはじめました。満洲を横断する鉄道の敷設権をロシアが清国から得て建設が始まると、鉄道工事や沿線開発のために大量の朝鮮人移民労働者が雇用されてゆきます(鉄道などの利権は日露戦争後日本の手に落ちる)。

さらに1910年の日本による韓国併合後、圧政や貧困から逃れようとした朝鮮人移民が激増し、1932年日本の関東軍による「満洲国」建国後は植民政策による計画的な朝鮮人移住が推進され、1945年「満洲国」内の朝鮮人人口は216万を超えていました。

日本降伏・「満洲国」崩壊後、少なくない数の朝鮮人が帰国した一方、中国国境内に残った人びとは1949年中華人民共和国成立後に正式に中国国籍へと編入され、「中華民族」を構成する漢民族ほか55少数民族の一つとしての朝鮮族になったわけです。

現在長春市では、朝鮮族中学(日本の中学校と高校にあたる)と朝鮮族小学で民族教育が行われています。市内の寛城区にある朝鮮族小学は1922年の設立とされていますが、この場所はもともと「満鉄附属地」として、日露戦争の結果日本がロシアから権益を引き継ぎ「満洲国」建国前から日本が行政・司法・警察・軍事権を振るっていた地域です。現在の朝鮮族小学の敷地は、1945年以前は「日本橋公園」と呼ばれ、「満鉄創業館」が建っていた場所なのです。(なお満鉄創業館は1909年10月、伊藤博文がハルピン駅頭で暗殺される前日に宿泊した所としても有名です。)
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【写真は「満鉄創業館」】

その経緯と背景には日本帝国主義とからみあった複雑な歴史のあることが想像されます。最近購入した『中国朝鮮族移民史』(孫春日著、中華書局、2009年)を手始めに、この地域の入り組んだ民族の歴史についても少しずつ勉強したいと考えています。
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長春だより

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