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「大逆」事件と「爆弾計画」事件――天皇制をめぐる雑感 [日本・近代史]

103年目を迎えた、国家による「合法的」な大量殺人である「大逆」事件。昨日の投稿で述べたように、その発端となったのは、1910年5月に機械工の宮下太吉が「爆発物取締罰則」違反の容疑で検挙されたことにありました。民衆を覚醒させる手段として明治天皇殺害を決意した宮下は、その前年から管野スガ・新村忠雄・古河力作との四名で計画を進行させ、爆弾の試作実験を行っていました。
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【左が宮下太吉(1875-1911)、右が菅野スガ(1881-1911)】

宮下ら四人による「爆弾計画」事件について、これも官憲による「でっち上げ」「架空の事件」ではないのか、という意見を、ネット上で目にしました。しかし、現在までに判明している「大逆」事件関連の史料・研究を読む限り、宮下太吉らの「爆弾計画」事件については官憲のでっちあげの可能性は低いというのが、私の判断です。それはまた、これまで多くの歴史家たちが、「大逆」事件の真実を明らかにすべく渾身の力で史料を発掘し、議論を積み上げた結果得られた定説でもあります(興味のある方は、入手の容易な本として、最近復刊された神崎清『革命伝説』全四巻(子どもの未来社、2010年)をご覧ください)。

多くの歴史家とともに私も、宮下・管野たちが天皇暗殺に賭けた情熱と行動は本物で、爆弾試作は史実であったと考えます。それすらも「架空」だ、「でっち上げ」だと否定することは、彼ら四名の信念や志を無にすることになり、それでは彼らも決して浮かばれないと思います。史料に即して史実を可能な限り明らかにし、それを自分勝手な立場から捻じ曲げないことが、「大逆」事件犠牲者たちに対する私たちの責任だと信じます。

「大逆」事件の本質は、四人の「爆弾計画」事件を、社会主義者の全国的陰謀として官憲が恣意的に書き換え、「大逆」罪を発動することによって社会主義者を「合法的」に殺戮し絶滅することを企んだことにあります。

戦前の刑法第73条に規定されていた皇室危害罪=大逆罪は、天皇などに対して実際に危害を加える行為だけでなく、危害を加えようとする一切の企て、すなわち予備・陰謀・幇助などをも刑罰の対象とし、その全てについて死刑に処す、という恐るべきものでした。宮下ら四人の「爆弾計画」は、この大逆罪に触れる相当の覚悟と信念によって行われたと思われます。他方、死刑判決を受けたその他20名の「罪状」は、当時の刑法からいっても全くのでたらめ・捏造で(四人の「爆弾計画」を事前に知っていた幸徳秋水については議論がありますが)、彼らの無念は察するに余りあります。

上のような意味で、「大逆」事件は官憲によるフレームアップ=「でっち上げ」でした。しかし、宮下・管野たち四名の明治天皇暗殺計画と、そのための爆弾試作までがでっち上げだったわけではありません。被告たちの「潔白さ」を信じるあまり、四人の明治天皇暗殺計画を否定したり、その意味を軽視したりすることは、かえって歴史の真実を覆い隠すことになります。そうした「善意」による史実の歪曲は、「日本人が天皇の暗殺を企てるはずはない」といった「神話」につながり、天皇制を自明視する精神構造を強化する恐れすらあるでしょう。それは、天皇制国家に殺された四人の志そのものを否定することにほかなりません。

史料に即して史実を追求し、勝手に捻じ曲げないこと。それは、先人たちの歴史から私たちが教訓を得るために、絶対に不可欠な条件です。

「大逆」事件という兇悪な国家殺人――1911年1月24・25日 [日本・近代史]

103年前の昨日(1月24日)、「大逆」事件の被告としてでっち上げられた幸徳秋水ら11名が、日本の国家権力によって惨殺されました(翌日には管野スガも殺害)。

この非道な国家犯罪の発端は1910年5月25日、長野県明科の機械工の宮下太吉が「爆発物取締罰則」違反の容疑で検挙されたことにありました。宮下宅からは多数のブリキ缶や火薬原料などが発見され、それらが明治天皇の暗殺を目的とする爆弾の材料として準備されたことが、宮下の自供によって明らかにされました。

宮下は民衆を覚醒させる手段として明治天皇殺害を思い立ち、菅野スガら三名と相談しながら、爆弾実験などを行っていました。しかしこの計画が具体化しないうちに、警察は宮下の爆弾製造を察知してこれを捕縛、きびしい取調べの末に天皇暗殺計画についての自白を得たため、爆弾事件は皇室危害罪(大逆罪)の適用される「大逆事件」へと展開してゆきます。

大逆罪を規定する刑法第73条は、天皇などに対して実際に危害を加える行為だけでなく、危害を加えようとする一切の企て、すなわち予備・陰謀・幇助などをも刑罰の対象とし、その全てについて死刑に処す、という恐るべきものでした。

20世紀はじめの日本において、天皇制国家の帝国主義戦争に正面から反対し、自由と人権の擁護を最も強く主張したのは、社会主義者たちでした。彼らは、日本政府が帝国主義政策を遂行してゆくうえで、最大の障害でした。そこで政府は、宮下らの爆弾事件を利用し、この機会をとらえて「大逆」罪を発動することによって、社会主義者たちを「合法的」に殺戮し絶滅することを企んだのです。

検察当局は、天皇暗殺計画の首謀者は著名な社会主義者の幸徳秋水であると決めつけ、6月1日に逮捕しました。さらに検察は、宮下ら四名による爆弾事件の本来の構図を恣意的に書き換えて、幸徳を中心とする社会主義者、とりわけ「無政府主義者」による全国的な「大逆」陰謀事件という筋書きを捏造しました。この架空の構図に沿って、本来の爆弾事件とは何の関係もない社会主義者が、全国各地で次々に検挙されたのです。最終的に「大逆事件」の共犯者として起訴された者は二十六名に及びました。

このでっちあげ事件の裁判は異例のスピードで展開され、1911年1月18日、大審院は幸徳秋水ら24名に死刑判決を下しました(翌日、うち12人が明治天皇の「仁慈」(?)によって無期懲役に減刑)。そして判決から一週間もたたない24日、市ヶ谷の東京監獄で幸徳ら11名の、25日に管野スガの死刑が執行されてしまったのです。

それから103年目の1月24日、国家権力によって12名が惨殺された現場である東京監獄の跡地を私は訪ねました。その一部は現在、新宿区の富久町児童公園となっています。かつて刑場があったとされる場所には1964年、日本弁護士連合会によって「刑死者慰霊塔」が建てられました。

監獄跡地の公園では、おしゃべりに夢中な母親たちのそばを小さな子どもたちが走り回り、かたわらのベンチではお年寄りが日向ぼっこしています。穏やかな冬の日、その片隅にひっそりと建つ慰霊塔には、心ある人によって新しい花が供えられていました。平和な世界の実現のために身命を賭しながら、それがあだとなり天皇制国家権力によって「大逆」の血祭にあげられた12名の犠牲者たち。103年前に行われたこの兇悪な国家殺人に対して怒りを新たにしつつ、彼らの志をいかに受け継ぐべきか、思いをめぐらした一日でした。

【写真は、東京監獄の刑場跡地に建つ「刑死者慰霊塔」(1月24日)】
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朝鮮学校襲撃事件をめぐる雑感 [日本・現代社会]

1月22日の正午過ぎ、神戸朝鮮高級学校に男が侵入し鉄の棒で暴力を振るうという、きわめて悪質な襲撃事件が起きました。
http://www.kobe-np.co.jp/news/jiken/201401/0006654614.shtml
http://mainichi.jp/select/news/20140123k0000m040028000c.html

私にとって何よりも衝撃なのは、この重大な事件について、マスメディアがほとんどまともに報道していないことです。

仮に、外国の日本人学校で同じような事件が起きたならば、日本の全ての新聞・テレビは必ずやトップニュースで扱い、直ちに世論が沸騰することでしょう。ところが、自国で起きたこの事件に対しては口を閉ざしてしまう。これはいったいどうしたことでしょうか?

人種・民族差別に基づく悪質な言動や行動が公然となされることが、最近の日本社会で目立って増えています。確かに多くの人びとはそれに眉をひそめますが、しかしどこか他人事のように考えていないでしょうか?そうした民族的憎悪の言動や行いを嫌悪しつつも、しかし何となく黙認してしまうような空気が、今の日本に生まれていないでしょうか?

私はほぼ半年おきに日本に一時帰国しますが、そのたびに、日本のマスメディアとそれを取り巻く社会の雰囲気の微妙な、しかし深刻な変質・劣化を感じます。

沖縄の名護市長選で辺野古移設反対を訴える現職が再選した翌日、NHKの夜9時のニュースは、ソチ五輪に出場予定の日本選手たちの動静といった、何の緊急性もない「明るい話題」を長々とふりまき、ようやく市長選や普天間移設問題に触れたのは9時半を過ぎてからでした。こうした奇怪な風景に、日本社会の異変を感じるのは私だけでしょうか?

戦後民主主義の変質は80年代の中曽根政権時代からと思いますが、社会一般の精神構造の保守化が、90年代の長期不況突入以後、緩急や曲折を経ながら着実に進行したことは確かでしょう。とりわけ99年の国旗国歌法や周辺事態法の制定のあと、小泉政権のもとで国家主義・軍事大国化が新自由主義(市場原理主義)と手を取り合って進みました。が、社会心理的な面で凧の糸が切れたのはやはり311後ではないでしょうか。「国難」を乗り越えるために人権を犠牲にするのもやむを得ない、といった危険な言説が公然と語られるようになっています。

今日と同じく平穏な明日が来ると、多くの人は信じている、いや信じたがっていることでしょう。確かに今日の晴れ上がったこの街角は、今までと変わらない風景に見える。しかし、目に見えないところで何かが決定的に変わってしまったのではないか?はた目には今までと変わらず美しい四季がめぐっているかのような福島周辺の広大な山野が、実は目に見えない放射能によってもはや回復不能に侵されているのと同じように。

日本社会を怪しげな黒雲が覆いつつあることを、多くの人は実はどこか肌で感じているのではないでしょうか。しかし、そうした不吉な感覚は思い過ごしであってほしい。「明るい話題」で気を紛らし、そらやっぱり今日は昨日と同じだと確認したい。同じような平穏な明日が来ると信じたい。そのように思いこまなければ、生活も仕事も手につかなくなってしまう。

しかし、朝鮮学校襲撃事件に対するマスメディアの不気味な沈黙をみて、やはりこの社会は決定的に変わってしまったのだと、改めて痛感させられました。私たちはこの不愉快な事実を認めねばなりません。真剣に考え、行動せねばなりません。さもなければ、悪夢はやがて現実となることでしょう。

NHKドラマ『足尾から来た女』についての疑問 [日本・近代史]

NHKドラマ『足尾から来た女』。時代背景が私の狭い専門分野と重なっていることもあり、中国でもずっと楽しみにしてきました。幸い今回、日本への一時帰国を利用して再放送を観ることができました。

日清・日露戦争に勝利し、一躍新興帝国主義国家としてのしあがった明治日本。当時の日本にとって、銅は富国強兵に必要な外貨を得るために不可欠な輸出品でした。そうした国策による足尾銅山の急速な開発によって引き起こされたのが、足尾鉱毒問題です。

1890年代末から数度にわたって行われた足尾鉱毒被害農民ら数千人の上京示威運動や、田中正造の「直訴」などを経て、足尾鉱毒被害を救済すべきだとする世論が急速に高まりました。こうした世論の圧力によって、政府もようやく鉱毒対策に重い腰を上げはじめます。しかし、富国強兵に必要な足尾銅山の操業を停止するという選択は、日本政府にはありません。そこで窮余の策として現れたのが、鉱毒被災地の一つ谷中村をつぶして、ここに巨大な遊水地を造り、流域の鉱毒を緩和する、という案でした。

こうして谷中村は、国策の前に犠牲の羊として生贄にされてゆきます。この不正不義に憤った田中正造は、強制立ち退きを拒む谷中村民とともに、巨大な国家権力に敢然と立ち向かう道を選びました。このような時代背景のもと、田中正造を中心とするさまざまな人間模様を描き出そうとしたのが、ドラマ『足尾から来た女』です。

ドラマの主題である谷中村問題は、国策・国益の名の下に、一部地域の住民の人権を奪い深刻な犠牲を強いるという点で、現在の原発問題や普天間移設問題とも通じています。その意味では、今の時期にこうした重大なテーマを扱ったドラマを制作した方々に、敬意を表したいと思います。

しかし、明治時代の社会運動を研究してきた私にとって、このドラマは疑問を感じざるを得ない点がいくつかありました。

その一つは、『足尾から来た女』という題名です。ドラマの主人公の女性は、足尾銅山からではなく、鉱毒の被害を受けた谷中村から来たのです。足尾銅山は渡良瀬川の上流にあり、谷中村はそのはるか下流に位置し、両者は地理的に大きく隔たっています。にもかかわらず、なぜこのような題名にしたのでしょう?

このドラマのさらに大きな疑問点は、当時の社会主義者、とりわけ石川三四郎の描き方です。ドラマで石川は、谷中村から来た貧しい娘にセクハラを働くような、傲岸で裏表のある浮ついた人物として描かれています。しかしそれは完全に史実に反するものです。私の知る限り、当時の石川三四郎は非常に繊細で内向的な青年で、ドラマが描く人物像とはむしろ正反対の人格なのです。

確かに石川は「自由恋愛」論を唱えましたが、それは当時の前近代的で抑圧的な家族制度・結婚制度を批判し、真実の愛に基づく男女の精神的な結合を強調するものでした。ドラマでは、石川の「自由恋愛」論はフリーセックス論のようにみなされていますが、そうした曲解は、当時の御用論客が社会主義者を反倫理的な怪物に仕立てるためになされたものです。ドラマの描く石川の人間像は、御用論客によって醜く描かれた当時の社会主義者像と相似的だと思いました。

そもそも石川は徹底した非暴力論者で、階級闘争にすら否定的でした。その石川が、あたかも暴力革命論者のようにドラマでは描かれているのも、おかしなことです。

このドラマでは、幸徳秋水・堺利彦ら社会主義者を、観念的に革命ばかり唱えている頭でっかちな人間としてことさらに描き、そのカリカチュアとして石川の人間像を造ったように見えます。それと対比する形で、「地に足の着いた」田中正造の実践の「偉大さ」を際立たせようとしているのではないでしょうか。しかし、当時の社会運動を研究してきた私としては、こうした対比の仕方は全く納得できません。

1907年2月の足尾銅山争議・暴動事件と社会主義者との関係についても、ドラマの描き方には首を傾げざるを得ません。その頃足尾銅山には、坑夫の自発的な労働組合(大日本労働至誠会)が組織され、組合の主導する待遇改善運動が始まっていました。が、その矢先、組合を嫌う飯場頭によって暴動が扇動され、その結果組合もその地道な努力も破壊されてしまったのです。しかし警察はこれを利用し、この暴動は社会主義者が扇動したものだというデマを流しました。こうした史実について、ドラマの描写は実に不正確で、むしろ当時の警察見解に近いものだという印象を受けました。

また、社会主義者を一律に「国家転覆」陰謀者として弾圧した当時の警察見解についても、ドラマはそのまま追認しているように見受けられました。こうした見解は「大逆」事件のでっちあげへと連なるもので、当時の多くの社会主義者たちの実際の思想や行動からはかけ離れたものです。

総じて、このドラマでは当時の社会主義者が戯画化、さらに言えば悪魔化されているように、私には感じられました。彼らについて親しく研究してきた者として、こうした描き方はとうてい納得できるものではありません。意義深いテーマを扱っているドラマであるからこそ、いっそう残念に思います。

20世紀初頭の日本において、帝国主義戦争に正面から反対した唯一の人びとは、彼ら初期社会主義者です。当時において、最も強く自由と人権の擁護を主張し、最もラディカルな民主主義を主張したのも彼らです。田中正造が偉大なのは確かであるとしても、それを強調するためになぜ初期社会主義者たちをことさらに貶める必要があるのでしょうか?私には理解できません。


【後記 1月26日】
前編の放送で、貧しい農民の娘にセクハラを働く卑劣な男として描かれた石川三四郎。後編の放送(1月25日)ではなんと強姦魔(未遂)として現れました。明治時代の初期社会主義者たちが遺した史料を読み込んできた私にとって、石川は親しい友人も同然です。その彼がこのような侮辱的な描かれ方をされたことに対し、私は怒髪天を衝く思いをし、今も怒りと悲しみが収まりません。

それだけなら私憤かもしれません。しかしこのドラマでは、初期社会主義者たちが戯画化され、その延長線上に非人間的な怪物・犯罪者として石川三四郎が造型されています。当時の日本において、彼ら社会主義者たちは、帝国主義戦争に正面から反対し、最も強く自由と人権そして民主主義を主張しました。フィクションとはいえ、ドラマが彼らをかくも貶めて描いたことは、単に史実を歪めるということを越えて、日本の近現代史に対するさまざまな偏見を視聴者にもたらすことでしょう。その意味でも、私はこのドラマにおける描写を看過できず、この歪曲を決して許すことができません。

【後記2 1月26日】
後編でもう一つ疑問に思ったのは、娼妓の描き方です。近代日本において娼妓は、人間としての自由も権利も尊厳も全て奪われ尽くされた性奴隷として、弱者中の最弱者と呼ぶべき人びとです。その意味で彼女たちは本来、谷中村の人びとと相似的な存在であるはず。ところがこのドラマは、娼妓を醜悪な人格破綻者として描き、彼女たちの境遇に対する同情や共感のかけらさえ見られません。谷中村問題をテーマとするドラマがこの程度の人権意識しかないことに、驚かされました。

「満洲国」の爪痕(5)――長春・人民大街 [満洲国]

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写真の街路は、私の住んでいるアパートの面する「人民大街」です。かつて長春が「満洲国」の首都「新京」と呼ばれていた1938年、首都の中央を南北に貫く大動脈として、この道路は完成しました。当時の名は「大同大街」。
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【2013年5月撮影】

1931年満洲事変を起こして中国東北地方の奥深くまで侵略した日本の関東軍は、翌32年に「満洲国」を建国し、南満州鉄道(満鉄)の北方の拠点である長春を「新京」と改称して新国家の首都としました。満洲国を牛耳る関東軍や満鉄の日本人を中心に、新京を国都として整備する都市計画の立案が行われ、まもなく新市街の建設が始まりました。その際、満鉄の新京駅から真っ直ぐ南に延び新市街の中央を貫くメインストリートとして、幅員54メートル、全長10キロメートルに及ぶ「大同大街」が整備されたのです。
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【写真左、新京特別市・満洲事情案内所共編『新京概観』1936年(wikipediaより http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Manchukuo_Hsinking_Map_1936.jpg )。写真右、現在の長春市街図(googleマップより)】

この街路の建設過程で、いくつもの村落が強制撤去され、村人は流離を強いられました。そうした過程を経て大同大街には、事実上の最高権力機関である関東軍司令部をはじめ、関東軍憲兵司令部、満洲国首都警察庁、満洲中央銀行、満洲国協和会中央本部など、支配権力を象徴する建物が立ち並んでゆきます。
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【1939年の大同大街(wikipediaより http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Manchukuo_Hsinking_avenue.jpg )】

1945年満洲国の崩壊後、ソ連軍の占領下で新京は再び長春と改称され、大同大街も「斯大林(スターリン)大街」へと名を変えました。長春が中華民国国民政府の施政下に置かれた1946年、スターリン大街は「中正大街」(中正は蒋介石の正名)に改称され、共産党軍による包囲戦を経て長春が「解放」された48年、再び「スターリン大街」の名に戻されました。

それから50年近く経過した1996年、ソ連崩壊など時代の変化を踏まえて、長春市政府は「スターリン大街」を「人民大街」に改称して現在に至ります。

大同大街をはじめ、国都建設計画によって整備された新京の街路は、ほぼそのまま現在の長春の中心市街をなしています。関東軍司令部は中国共産党吉林省委員会として、憲兵司令部は吉林省人民政府として、首都警察庁は長春市公安局として、満洲中央銀行は中国人民銀行長春支店として再利用され、今も人民大街にその威容を誇っています。
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【人民大街沿いの中国共産党吉林省委員会(旧・関東軍司令部)】

タグ:長春 満洲国

文化大革命の傷跡――元紅衛兵たちの「お詫び」 [中国・近現代史]

文化大革命が猛威を振るった1960年代後半、北京師範大附属女子中学(現・北京師範大学附属実験中学)で「紅衛兵」として活動した元生徒20数名と、当時の教員およびその遺族30数名が昨日(1月12日)面会し、元生徒たちは四十数年前に自分の先生に対して行った暴行致死事件について「お詫び」を述べました。
(『新京報』1月13日)http://epaper.bjnews.com.cn/html/2014-01/13/content_489922.htm?div=-1

事件のあらましは次のようなものです。1966年6月2日、北京師範大附女子中学に「命をかけて党中央を守れ、毛主席を守れ」という壁新聞が突然張り出され、同校の幹部や教員たちに対する攻撃が始まりました。翌日から学校は文革派によって占拠され、授業は停止、代わりに毛沢東の著作の学習が命じられます。学校の至る場所に教員たちを次々と告発する壁新聞が連日張り出され、生徒は教員を呼び捨てにし、さらに罵倒、糾弾が始まりました。

生徒の糾弾の標的になったのは、同校の副校長(当時校長は設置されなかった)だった卞仲耘さんという50歳の女性でした。若かりし頃抗日戦争に参加し、建国後の49年から教師としてずっと同校に勤めてきた卞副校長は、しかし文革の開始とともに「反毛」思想の持ち主とみなされて壁新聞や面前で連日生徒に罵倒され続けました(彼女の「罪状」として、地震で避難する際に毛沢東の肖像を持ち出すことに消極的だったことなどが挙げられました)。

66年6月23日、卞副校長の全校糾弾大会が開かれ、彼女は跪かされたうえ両手を縛り上げられ、教え子らから殴る、蹴る、泥を口や目に入れられる、唾を顔中に吐きかけられる、といった暴行を受けました。さらに8月5日、「反革命修正主義分子」とみなされ、生徒の紅衛兵らによって、腹を蹴る、顔を踏みにじる、大小便を頭からかける等、いっそう激しい暴力にさらされ、意識を失い手押し車の中に投げ込まれたまま亡くなりました。彼女の死亡証明書には「死因不明」と記され、残された四人の子供たちと夫は泣き寝入りのまま長いこと沈黙を強いられました。

文革終了後の1979年、遺族は北京市公安局および検察院に卞さん殺害事件の捜査と起訴を求めましたが、時効のため不起訴とされました。その後も事件の究明を求める遺族の訴えは絶えることなく、ようやく2009年、元生徒らによって卞副校長の銅像が造られ、そして昨日のお詫びとなったわけです。

昨日、事件のお詫びをした元生徒の中に、宋彬彬氏がいました。宋氏は中国共産党の「八大元老」の一人宋任窮の次女で、66年当時北京師範大附女子中学の高等科三年生。卞副校長糾弾のきっかけとなった最初の壁新聞を張るなど、同校の紅衛兵のリーダーとして「活躍」しました。卞副校長の殺害から間もない66年8月18日、宋彬彬氏は天安門の楼上で毛沢東に「紅衛兵」の文字が刺繍された腕章を捧げ、毛沢東から「宋要武」の名を与えられたことで有名です。

宋彬彬氏は父親の失脚とともに一時期下放されましたが、72年に長春の大学に入学、80年代に米国に移住してマサチューセッツ工科大学で博士号を取り、アメリカ国籍も取得しそのまま永住生活を送っています。

今回北京を来訪した宋彬彬氏は、遺族らとの面会で涙を流し、亡くなった先生への「お詫び」の意を表す一方、当時自分は暴力を振るったことはなく、他の生徒の先生に対する暴力を止められなかったことに自分は責任を感じる、という趣旨を述べました。

文革時の暴力事件の遺族に対し当事者が「お詫び」したことについて今回報道したのは、独自取材で定評のある『新京報』ですが、この記事は多くの人の注目を集め、ネット上にさまざまな意見が書き込まれています。文革が中国社会に残した傷は今なお癒えてはいないようです。

http://epaper.bjnews.com.cn/html/2014-01/13/content_489922.htm?div=-1
http://politics.caijing.com.cn/2014-01-13/113810571.html

査干湖の「冬捕」――前ゴルロス・モンゴル族自治県にて [中国東北・雑記]

東アジア史関係の会議に参加するため、吉林省と黒竜江省の境界にある前ゴルロス・モンゴル族自治県に行ってきました。同自治県の総人口58万人のうち、1割ほどがモンゴル族で、最大多数の漢族のほか、満州族、回族、朝鮮族、シベ族などの少数民族が暮らしています。

この地にはその昔、モンゴル系の契丹族が建てた遼国の拠点の一つとして1022年に塔虎城が築かれました。周囲5km以上に及ぶ城壁跡や、建築群跡などの遺跡が今も残っています。やがて付近の大草原はモンゴルの一支族ゴルロス部の故地となり、17世紀に入り女真(満洲)族の建てた清朝に服属して、ゴルロス前旗が設置されました。その後、中華民国・「満洲国」の時期を経て、現在は吉林省松原市に属する自治県となっています。

ゴルロスとはモンゴル語で川を意味します。その文字通り、県内には東北大平原を貫く大河として著名な松花江のほか、大小さまざまな湖沼が草原の中に点在し、水産資源が豊富です。うち最も大きな湖が査干湖で、今回はそのほとりの宿泊施設で会議が行われました。

査干湖は水面面積345平方km、琵琶湖の半分くらいの広さで、漁業資源の豊かな湖として有名です。とりわけ全面結氷する冬季、12月中旬から翌年の春節前まで、分厚い氷を破砕して行う伝統的な漁法「冬捕」は、中国の無形文化遺産に登録されています。この「冬捕」は、遼(10~12世紀)の皇帝が査干湖に行幸した際にも行われたことが史書に記されているほど、長い歴史をもっています。
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一昨日、全面結氷した査干湖の中央部まで車で走り、「冬捕」を見学してきました。水平線の彼方まで果てしなく氷雪の広がる湖の真ん中で、漁民たちは厚さ1~2メートルもある湖面の氷に一定の間隔で穴をうがち、長さ数百メートルの巨大な網を入れ、数頭の馬を動力にしたウインチで網を引き絞りながらゆっくりと引き揚げます。すると網の中から大小無数の魚が現れてぴちぴちと跳ね上がるのです。氷点下20度、魚たちは数分のうちに凍り付いてゆきます。極寒の風が吹き付けるなか、この神秘的な光景に、寒さも忘れてしばし見惚れました。

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会議の後の夜、鯉・レンギョ・コクレンなど査干湖のさまざまな魚料理をいただきました。大きい魚は70センチほどもあり、どれも臭みがなく、淡泊な味わいです。羊の丸焼きをつまみにコーリャン酒をしたたか飲まされ、その夜は前後不覚となりました・・・
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長春のイスラム食堂 [中国東北・雑記]

昨日の昼は近所のイスラム食堂で食事しました。
写真の「紅焼牛肉麺」は一杯10元(日本円で170円)、ごく庶民的な値段です。
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吉林省のイスラム教徒人口は、2010年の公式統計では11万9千人ほど(全人口の0.4%余り)、その多くは回族(イスラム化した漢民族)です。長春市内には民族自治が実施されている区域「双営子回族郷」があり、民族学校もあります。

長春の街のあちこちにはイスラム食堂があり(「清真」という表示がある)、スーパーでもムスリム向けに調理された肉が売られています。大学の学食にもムスリム向けのコーナーがあります。
イスラム食堂はムスリム専用というわけではなく、私のようにイスラム教徒以外の客も多いと思います。豚肉やアルコールのメニューがないほか、壁にはアラビア文字で書かれたポスターなどが貼られ、時間帯によっては厨房からお祈りの声が聞こえてきます。
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長春だより

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