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集団的自衛権反対をめぐる新宿駅南口の事件 [日本・現代社会]

集団的自衛権行使容認反対をめぐる新宿駅南口の焼身自殺未遂事件。中国でも非常な注目を集め、テレビニュースで繰り返し取り上げられた。現場の画像を伝えたニュースサイトには、称賛のコメントがあふれている。「平和の為に献身するあなたに敬意を表する」、「烈士よ!どうか御無事で」、「平和に献身する人。壮烈さは敬すべし」、「堂々たる本物の男」、「日本国民の英雄」、「平和の為に世界人民の目標は一致している。誰も戦争は望まない」、等々のコメントには3千、2千、千を超える「支持」が寄せられている。
http://slide.news.sina.com.cn/w/slide_1_2841_62339.html

『論語』に「志士仁人」は「身を殺して仁を成す」とあるように、大義のために命を捨てることを称賛する文化が、東アジアに広くみられる。そして「自死」という衝撃的な方法は、テロリズムとともに、メッセージの伝達力が確かに大きい。日頃日本の軍事大国化に厳しい目を向ける中国の世論に、安倍政権に対する日本民衆の抗議行動の存在を広く知らしめたのだから。

もちろん、最も非難されねばならないのは安倍政権だ。世論多数の反対にもかかわらず、集団的自衛権行使の容認を閣議決定で行おうとする暴挙が、社会の憤激と絶望をともに呼び起こしつつあるのだ。自公両党の密室の談合によって日本国が戦争国家に変えられようとしている今、それを阻止する正常な政治的回路を封じ込められた民衆の怒り、絶望、無力感が、今回の事件を生み出したといえる。その意味で今回自死を試みた男性は国家権力の犠牲者であり、どうか無事に回復されることを心から願う。

だがそれでも、いかなる大義のためであれ、自死やテロリズムの行為を美化することに、私は反対する。それらの美化だけではない。誰かの死を何か(肯定的に)意義づけようとするいかなる試みについても、私は疑念を持っている。国家権力や資本主義の犠牲者にすぎない人びとの死を、何らかの集団(国家・民族・階級・党・その他)の権威を正当化するために「英霊」や「義士」として利用することに、私は違和感をもつ。それは結局、それらの集団や「正義」を守るためのあらたな犠牲を肯定することにつながるのではないか?必要なのは「哀悼」であり、二度とそんな悲惨な犠牲をもたらさない決意であって、「感謝」ではない。沖縄戦の犠牲者たちを想うたびにそう考える。何かのために死ぬのではなく、とにかく生き延びること、そして誰も殺さないことこそが平和の基礎のはずだ。「殺身成仁」の称揚は東アジアの悪しき慣習だと思う。

報道によれば来月、日本政府は辺野古のボーリング調査と高江のヘリ着陸帯の建設工事を同時に始めようとしている。とんでもない暴挙だ。国家の暴力による犠牲を二度と沖縄から出させてはならない。問われているのは日本国に民主主義はあるのか、ということだ。

長春だより

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