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「満洲国」の爪痕(4)関東軍司令部――最高権力の表徴 [満洲国]

長春市の中心部に鎮座するこの建物を前にすると、いったい自分が今どこに立っているのか分からなくなるような戸惑いを覚えます。中国の風土とは全く異質なこの巨大な建物は、傀儡(かいらい)国家「満洲国」の権力の源泉であった日本の軍事力の根拠地、関東軍司令部として1934年に竣工しました。
関東軍総司令部3.JPG
【2013年12月撮影】

1935関東軍司令部.JPG
【1935年の関東軍司令部(wikipediaより http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Kwantung_Army_Headquarters.JPG )】

関東軍の起源は、日露戦争に勝利した日本が、遼東半島南部の「関東州」(旅順、大連など)の租借権と、長春―旅順間の鉄道(後の満鉄)および付属地の権益をロシアから譲渡され、これらを統治する行政・軍事機構として1905年、天皇直属の「関東総督府」を遼陽(遼寧省)に設置し、軍隊を配備したことにあります。総督府は翌年、「関東都督府」に改組して旅順に移転、その守備隊である「関東都督府陸軍部」がこの地の日本権益の防衛にあたりました。

1919年、関東都督府はさらに改組して「関東庁」となり、同時に軍事部門が分離して「関東軍」が成立しました。関東軍は単にこの地の日本権益を防衛するにとどまらず、権益の拡大を目指して中国の国民革命に干渉したり、ソヴィエト・ロシアに対抗する戦略を策定したりするなど、しだいに独善性を強めてゆきます。1928年、関東軍は奉天軍閥の巨頭で中華民国軍政府大元帥の張作霖を爆殺するという謀略事件を起こしました。

さらに関東軍は武力による満洲の領有を計画しそのための謀略を立案、軍中央の容認のもとで1931年9月18日、奉天郊外の満鉄の線路上で爆薬を爆発させました(柳条湖事件)。関東軍はこの爆発を中国側による犯行と偽り、これを口実に中国軍に対して奇襲攻撃を行い、一挙に満鉄沿線を武力制圧しました。さらに独走する関東軍は戦線を拡大、数か月で満洲の全主要都市を占領し、この武力を背景に32年3月、傀儡国家「満洲国」を成立させたのです。

その直後、長春は満洲国の首都に定められて「新京」と改称、巨大な都市計画に基づいて様々な国家機関の建物が仰々しく造られてゆきます。1934年8月、新京の中心部に完成した地上四階・地下一階、日本の城郭の天守閣のような意匠の「帝冠」を戴くこの巨大な建物に、関東軍司令部は本拠を定めました。

この建物の主である関東軍司令官は関東長官(行政)と駐満洲国日本全権大使を兼ねていました。関東軍司令部は強大な武力を背景に、満洲国における事実上の最高権力機関として、抵抗者を容赦なく殺戮しながら、日本の満洲経営の全権を握り続けたのです。

1945年8月、日本の敗戦とともに満洲国は崩壊し、関東軍司令部の建物はソ連赤軍の東北地区総司令部となりました。ソ連撤退後の1946年、新たに長春に進駐してきた中華民国国民革命軍がここに本拠を置き、1948年の「解放」後は中国人民解放軍がこの建物を使用しました。そしてこの建物は1955年、この地域の最高権力機関である中国共産党吉林省委員会の本拠となって、今日に至ります。

この建物が完成してからまもなく八十年。建物の主は二転三転したものの、この土地に君臨する政治権力の在り処を明示するというこの建物の本質的機能は一貫しており、今日もその威光を放ち続けています。

長春だより

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